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あるがままに捉えれぬが故に基準から切り取らざるを得ぬ前提を弁えぬ凡人は、言葉の魔力に支配されて現実に盲目である―『正欲』

*扉絵:コグニティブ・フォートトク、ビジョンクリエーター生成画像。
*以下の論考には映画『正欲』(岸善幸監督、2023)のネタバレが含まれる。

この映画は、普通であらねばならないという呪いと、そこから逃れたい願望のせめぎ合いだ。

あり方としてそうある事と、それが自己目的化する事には雲泥の差がある。さながら動詞と名詞の違いで明らかな様に、動態として揺らぎ切れ目無くそこにある存在を囲って括って捩じ込んで組み付け掬い取る言語の表層的単位として名指す静的標識は、その性質を弁えねば容易に本末転倒し、躍動的把握が教条的隷属に成り下がる。そして、それ以外にあり得ぬという強迫的呪縛的「~ねばならない」は正に教条的隷属たる被支配の「させられる」であって、認知の程度が能動的「する」と受動的「される」のいわゆる能所対立が孕む下位次元へと退行し、この次元では能動・受動・使役の整理が付かない。

さて、教条的隷属を生み出す強迫的呪縛的言葉の魔力は絶大であり、「正欲」という表題自体が纏う妖しさを逆手に取って問いかけるこの作品は、明らかにその危うさを体現している。水フェチの共通項で繋がる桐生夏月や佐々木佳道、諸橋大也、或いは性被害によるトラウマ的男性恐怖症を抱える神戸八重子が体現する「異常(異様/過剰)性」よりも、彼らと正対する検察官・寺井啓喜が成す言動の隅々に渡って滲み出る「普通」こそ、禍々しい。

啓喜は職業的に象徴として描かれる。「俺たちの仕事は、被疑者の行為がどんな犯罪にあたるか見極めることだ」と述べて彼は罪刑法定主義のフレームを提示するが、しかし結局のところ犯罪類型のフレームを被疑者に当てはめるだけの機械的判断をしているに過ぎない。彼は目の前の現実と向き合う事をせず、観念的教条的な枠組みとしての言語を並べ立て、行為として引き受けない。息子にせがまれて風船を膨らます事が出来ず軽口を叩き、ネット配信の手配に関わりもせず口を出すだけだ。挙げ句の果てに、組み付く妻・由美と向き合いもせず、息子の眼差しに顔を背ける。言葉が上滑り家庭が崩壊する彼は、そうなった後で、夏月に腕を差し出す変化を見せる。

言葉が上滑る様は非常に象徴的で濃淡を示す。啓喜の強烈な無様とは違った形で顕れるのが、学園祭の企画を持ち込む面談の際に見せる久留米よし香と高見優芽のノリの良さだ。異質な世界を覗き見たいお利口さん(ミーハー)と知識をひけらかす普通の取り巻き(ワナビー)がキーワードに反応して盛り上がる軽薄さに異を唱え核心部分を突く大也を、優芽は彼が和まず歩み寄らないと見做す。そして彼女は、当事者では無い自身の超え難い一線を突きつける相手に意趣返しとも取れる行為を成す。優芽はダンスの魅力を朴訥に、しかし凡庸に言い表す異質/過剰な八重子に大也との関係性を促すのだが、大也の性向と八重子の性向は合うはずも無く、そこで関係が結ばれずに終わる。ただ、ここで彼が見せる拒絶は、普通から外れる同類が相手を想う真摯な告白に行き着いて、当初の冷徹で辟易する眼差しから、申し訳なく慮る眼差しへと変わる。

彼らとは違って関係性を結ぶ佳道と夏月は中学時代から互いの癖に勘付いており、奇しくも同日に自殺が未遂に終わる彼らは邂逅して互いの共通性を確認し、社会を生き抜くために共同戦線を張る。相手が何に興味を持ち、何に魅了され、何を求めているのかを知っている二人は、この再会を逃すと二度と廻り会えない掛け替えのない存在として互いを認め合い、結婚という制度を隠れ蓑に擬態する。そして興味深い事に、その振りをしているはずの彼らこそが、本当にそれらしさを体現する逆説が描かれる。

佳道が拘留され、検察の聴取に赴く夏月は淡々とした眼差しで淡々と定型句を述べる。「夫が話していることが全てです」と毅然として言い切るのは、彼女が彼を知っているからだ。そこに疑念や不信といったあやふやな要素はなく、事の経緯を知り互いの癖を知る彼女はそう述べるしかない。

しかし啓喜は「あり得ない」と一蹴する。そこにある(いる)ものをあり得ないと否定する言説は、そのように言う者の拒絶でしかない。往々にして気狂い(キチガイ)と称するそのあり得なさは、そのように受け止める側の無知や不慣れに起因し、知っている言葉で説明し得る範囲内でしか物事を認識出来ない者の敗北宣言に等しい。そして既に知っている内側に閉ざされる者は、その範囲を逸脱する外の物事を既知外と発しているに過ぎない。

夏月は「あり得ない」と言われて問答する際に得も言われぬ表情を見せる。そのように拒絶する啓喜に対して怒りと悲しみと哀れみと困惑の織り混ざる眼差しで問いかける彼女は、しかし、ただ淡々と述べるだけだ。彼らに降りかかる災難は、凡庸な夫婦ならば関係を解消するには十分な出来事かも知れないが、夏月にとっては些かも影響など与えない。彼女は佳道への伝言を望む。「いなくならないから」という至って普通の事を。

この佐々木夫妻は共に興味深い認識を持つ。「命のかたちが違っとるんよ。地球に留学しとるみたいな感覚なんよね、ずっと」と述べる夏月と「人間とは付き合えない」と述べる佳道は、共に自身を人と見做していない。普通であらねばならぬという呪縛から逃れんとする二人は諦観の後に協働して安全圏を確保し、この先もささやかな生活を営みつつ、人間性を育む途上だろう。

ところが、彼らとは対照的に、大也は自身を人と見做している。当初、自身の願望が普通から見て根本的に終わっていると認識する彼は、怒りにも似た強烈な衝動をダンスで表現するのだが、共通の癖を共有して悦びに触れる彼は啓喜の取り調べで恫喝されても微動だにしない。その凛とした眼差しは「僕は水が好きなんです」と淀みなく述べる自己信頼であり、絶望から光を宿す彼は抽象次元を上るかも知れない。

2024.7.20 表題修正[ない→ぬ]。

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