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【第13章・備中守の使者】融女寛好 腹切り融川の後始末(歴史小説)

第十三章  備中守の使者

 しばらくすると、素川を追った家臣が一人だけで戻ってきた。
「ご家老、玄関に町田先生が。ご家老にお話があると」
「なに、町田先生が戻っていらしたのか。で、素川様は?」
「行ってしまわれました」
「なんと。頭の痛いことよ。それで、町田先生は?」
「用件はご家老にのみお話するとのことで、玄関脇の控えの間でお待ちいただいております」
「そうか。すぐ行こう」
 長谷川は、奥様・歌子に向かって一礼すると、そそくさと出て行った。

 その後、栄が歌子に対して板谷桂意が注意してくれた浜町狩野家そのものの危機について説明していると、長谷川が戸惑い顔で戻ってきた。
「奥様に申し上げます。町田殿は、阿部備中守様のお使者として参られました。阿部家として、早急に御当家と話し合いの場を持ちたい。ついては、御当家の代表に阿部家上屋敷までご足労ねがいたい、とのことでございます」

「町田殿とは、どなただったかしら?」
「町田先生は蘭方医で、殿様のご友人でもあります。先ほど、殿様のご遺体の検分もしていただきました」
「殿のお友達? その町田殿が、どうして阿部家の使者なのですか」
「は、はい。町田殿は、医師として阿部家の御用を務めることがよくあるそうです。その縁で阿部家から仲立ちを依頼されたということでございます」

 栄は、どうにも胡散臭く感じた。
「仲立ち、ですか。随分と手回しがいいですね。そもそも阿部家は、先生がお亡くなりになったことをどこで知ったのでしょうか。何か引っ掛かりませんか」
「それはそうだが、阿部家からの招きを断るわけにもいくまい」

 栄と長谷川のやり取りを聞いていた歌子が、「では、長谷川、頼めますか」と言った。
「わ、私でございますか。いや、いや、私にはとても」
 確かに長谷川では頼りない。基本的に内向きの人なのだ。屋敷の事務処理や画塾や工房の管理に関しては頼りになるが、大名相手の交渉は無理だろう。

 歌子は、「では、どうしましょう。困ったわ」と小首をかしげた。

 重苦しい空気の中、しばらく考えていた歌子が、はたと思い付き、栄に目を向けた。
「お栄、頼めますか」
「わたくしですか。わたくしは、弟子ではあってもご家中(狩野家の家臣)ではございません。よろしいのでしょうか」
「よい。そなたは幼少の頃より殿のお側で画を習い、家中の誰よりも殿のご気性やお考えを承知しておりましょう。それに、先程のそなたの話では、子供たちの将来にも関わってくるかもしれないでしょう。事の重大さをわきまえているそなたに任せるのがよいと思う。よくよく頼みます」
「長谷川様、皆さま、よろしいですか」
「そうだな。そなたしかおるまい。頼む」と、長谷川も大きく頷いた。

 栄は、歌子に向かって姿勢を正し、しっかりと頭を下げてから言った。
「かしこまりました」

 歌子が立ち上がる。一同平伏。歌子が退出してようやく報告会が終わった。他の者たちと共に長谷川も座を立とうとしたが、一人だけ部屋の中央から動かず、難しい顔をしている栄の姿が目に留まった。
「お栄。町田先生が待っておられる。早く支度して、同道していただいたがよかろう」
「あっ、はい。分かり、い、いえ。ご家老、町田先生には帰ってもらって下さい。わたくしが使者となることは伏せ、代表者を決めた上で後ほど必ず伺います、とお伝え下さい」
「よいのか」
「はい。どうも連れられて行くのは、気分がよくありません」
「よく分からぬが、そなたに任せたのだ。好きにせよ。町田先生にはそう伝えておこう」
「ありがとう存じます」

 すでに六つ半(ほぼ午後七時)を過ぎている。栄は、阿部家に向かう前に軽く食事を摂っておきたいと思い廊下に出た。すると、先程まで歌子にぴったり付いていたこまが立っていた。
「お栄様、ちょっとよろしいですか」

次章に続く


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