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【第10章・目撃証言】融女寛好 腹切り融川の後始末(歴史小説)

第十章  目撃証言

 食らい付いてきそうな勢いの栄に対して、板谷桂意が静かな口調で尋ねた。
「そなた、今日、お城で何が行われたか知っているのか」
「はい。公方様から朝鮮国王に贈られる屏風の最終見分でございます」
「そうだ。問題はそこで起きた」
「やはり、やはりそうだったのですか」

 朝鮮通信使は、朝鮮国王が日本の最高権力者に対して派遣した外交使節である。十四世紀後半、室町幕府三代将軍・足利義満のときが最初であったとされる。江戸時代には、李氏朝鮮の王が、徳川将軍に対して朝鮮通信使を送ってきた。その回数は十二回に及ぶ。

 朝鮮通信使の主な派遣目的は、新将軍就任の祝賀であったから、当然、祝いの品を持ってくる。それに対して、日本側からも莫大な返礼品が贈られた。その品目の一つとして屏風があった。

 江戸時代の朝鮮通信使は、釜山から対馬に至り、馬関海峡、瀬戸内海を通って、大坂、京都を経て江戸まで行った。しかし、最後となる文化八年(一八一一年)の第十二回朝鮮通信使は、日朝両国ともに財政難のために対馬止まりとされ、朝鮮側の貢物も日本側の返礼品も大幅に削減された。
 屏風も、前回第十一回朝鮮通信使に対しては二十双が贈られたが、今回の第十二回においては、十双に半減された。

 それでも、六曲一双のフルサイズの屏風が十双である。六曲一双の「六曲」とは、画を描く長方形の画面を六枚繋げて一つ(一隻)の屏風にしているという意味だ。そして、「一双」とは、その屏風が二隻一セットということである。従って、六曲一双では十二面、十双となれば百二十面の画が描かれる。
 無論、それを描くのは、幕府の御用絵師である。将軍の命により、贈呈屏風制作を任されることは、日本絵画史に自らの名を刻む、一世一代の大仕事であった。

 そして、第十二回朝鮮通信使に贈る屏風制作に当たった御用絵師は九名。狩野派奥絵師四家の当主が半分の五双を担当。内訳は、御用絵師筆頭で今回の屏風制作の頭取(総責任者)も務める木挽町狩野家の伊川栄信が二双。浜町家の融川寛信、宗家中橋家の祐清邦信、鍛冶橋家の探信守道がそれぞれ一双ずつ。
 他に五名の御用絵師が各一双ずつ。板谷桂意もその中に含まれる。桂意は、雅楽の「青海波」や「打毬楽」が舞われる様子を描いたと伝わる。

 栄の師である融川寛信が描いたのは、「近江八勝図」であった。

 近江八勝は、近江八景とも呼ばれる。近江(現代の滋賀県)の琵琶湖畔にある八ヶ所の景勝地を指す。
 具体的には、比良山地(比良暮雪)、堅田の浮御堂(堅田落雁)、唐崎の松(唐崎夜雨)、三井寺(三井晩鐘)、矢橋(矢橋帰帆)、粟津原(粟津青嵐)、瀬田の唐橋(勢多夕照)、石山寺(石山秋月)である。

 八景の大元は、中国北宋の官僚・宋迪が描いた「瀟湘八景図」であった。その後、日本を含むアジア各地で八景ブームが起きる。
 近江八景は、日本における八景の代表格と言える。画題としても好まれた。現代では歌川広重の浮世絵が最も有名であるが、元々は水墨画として描かれることが多かった。

 融川も、六曲一双の屏風に水墨で描いた。八つの景色をそれぞれ墨で軽やかに描き、そして、空にたなびく雲を金泥と金砂子で表した。
 水墨画に金泥を用いたところに融川の工夫があった。金泥に濃淡をつけ、所々に金砂子を散らし、その間に樹木や家屋を配置して遠近感を出すように努めた。

「それで、あの屏風の何が問題だったのでしょうか」
「ああ。見分役のお一人が、金泥の使い方が気に入らなかったようで、融川殿と口論になってな」
「えっ、金泥ですか。あれのどこが?」
「何でも、金の使い方が貧相だとか、伝統的な技法から外れ過ぎているとか、というようなことだったと思う」

 金泥は作り置きが出来ない。従って、使う都度、金箔を小皿ですり潰し、それを指先で溶かした膠に練り込んでいく。屏風一双に使う金泥はかなりの量である。また、品質を一定にしなければ、ムラや剥離の原因となってしまう。
 金砂子も、金箔をふるいで細かく粉にして作る。何段階にも分けて、大小数種の金粉を用意する必要がある。ともに繊細さと根気が必要な作業だ。

 栄は、今回の屏風制作において、融川の助手として金泥と金砂子の準備を任されていた。研究段階の試し描きや下絵の分も含めれば、どれだけ・・・。

 将軍家斉から御用絵師に対して贈呈屏風制作の命が下ったのが約三年前。近江八勝を描くと決まって以来、融川がどれだけ金泥の工夫に苦心してきたか。栄は、それを横で見てきた。

「馬鹿な! 先生もあれを、あの金泥の使い方を貧相とご覧になりましたか」
「いや、わしは見事な出来だと思ったよ。あのように奥行きのある表現が出来るものかと感心した」
「ならば、なぜです。伝統技法からの逸脱? 言いがかりにも程があります。金泥も金砂子も古くから使われているものではありませんか。あくまで表現の工夫であって、何らおかしなことはないと存じます!」と、つい声が大きくなった。
「お栄よ、落ち着け。本日の見分では、大広間に十双もの屏風が広げられていた。わしも少し離れたところにおった。細かいやり取りまでは分からん」

「そう、なのですか。申し訳ありません。では、その、文句をおっしゃったのは、どなたなのでしょうか」
「あれは、阿部備中守様であったか」
「阿部様? ご老中でしょうか」
「いや、老中ではない。奏者番であったかな」
「えっ? 贈呈屏風の最終見分は、ご老中による見分と承知しておりますが」
「老中ではないが、重臣のお一人であることには違いない。あの場にいても不思議ではない」

 栄の顔には、どうにも納得いかない、と書いてある。それを見て、桂意は小さなため息と共に言い足した。
「知っての通り、わしは、政治向きのことにはなるべく耳を塞ぐようにしている。詳しい事情までは分からんよ」
「はい、承知しております。しかし、では、口論の行方はどうなったのでしょうか。融川先生のご様子は?」
「うん。阿部様が強く描き直しを主張されてな。融川殿も激しく抗っていた」

 この際、融川寛信は、「良工の手段、俗目の知るところにあらず」と言い放った、と古い記録にある。

「そこでさすがに見かねたか、伊川法眼殿が割って入られたのだ。しかし、融川殿はそのまま大広間を出て行ってしまわれた。阿部様も伊川殿も置き去りだ。さすがにあの態度は如何かと思ったが、まさか、自害してしまうとはのう」

「しかし、しかし、しかし、描き直しとは、あまりに理不尽ではありませんか。しかも、他の絵師の皆様もいらっしゃる前で。融川先生のご無念を思うと、わたくしは、わたくしは・・・」

 その後は言葉にならず、栄は、膝の上でギュッと両の拳を握った。その様子をじっと見て、今度はさらに大きく息を吐いてから、桂意が静かに言った。
「舜川殿はまだ幼い。お栄、悔しいのは分かる。融川殿も無念であったろう。しかし、ここからは、よほど上手く立ち回らなければ、浜町狩野家が消えてなくなるぞ」

 栄は、ハッと顔を上げて桂意を見た。

 桂意の言葉は重い。それには彼が二代目を継いでいる板谷派の成り立ちが関係する。元々、大和絵系の御用絵師は住吉家だけであった。その住吉家の先々代の当主が若くして病死した。しかし、嫡男は幼く、家督を継ぐ資格がなかった。そこで、弟子筋から桂意の父・板谷慶舟が、臨時に住吉家に養子に入って家を維持したのだ。

 板谷慶舟は至って善良な人で、住吉家の嫡男が成人すると家督を返上して住吉家を出た。さらに慶舟は、自分の存在が流派内での派閥争いの種になることを恐れ、まだまだ働き盛りの年齢であったにもかかわらず、たった一人で住吉派からも離れ、隠居同然となった。しかし、技量人格ともに抜きん出た彼のもとには自然と人が集まり、板谷派が形成されたのである。

 融川の嫡男・舜川昭信は十歳と幼い。板谷慶舟が善人であったため、住吉家は元の鞘に収まったが、一度養子を入れてしまえば、養子に家を乗っ取られても文句は言えない。
 ましてや、融川の死に方が異常である。養子による相続すら認められず、お家取り潰しとなる危険も十分ある。

 栄は、頭から冷水を浴びせかけられた思いがした。

次章に続く


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