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【第18章・探幽の獺(前段)】融女寛好 腹切り融川の後始末(歴史小説)

第十八章  探幽の獺(前段)

 阿部家上屋敷の黒書院。栄が室内に入ると、蘭方医・町田昌豊がいた。顔を合わせるのは今日三度目だ。
 最初、彼は素川章信に呼ばれて融川の検死のために浜町狩野屋敷にやって来た。しかし、二度目は阿部家の使者として現れた。そして今、備中守の意向で同席するという。一応、あちら側の者と見ておいた方がいいだろう。

 栄は、町田の指示に従い、部屋の中央の敷物の上に座った。最初に部屋を上段と下段に分ける黒漆で塗られた立派な横木が目に入った。その後、横に置かれた手あぶりで手先を温めながらゆっくり室内を見回す。

 畳が、横に四枚、縦に二、四、八枚で三十二畳。さらに奥の上段の間が十二畳。締めて四十四畳。黒書院でこれだ。大広間ならどんな広さだろうか。さすが十万石である。

 石高だけで言えば、加賀前田家百二万石、薩摩島津家七十七万石、仙台伊達家六十二万石など、はるかに大きな外様大名がいくつもあった。しかし、譜代大名の十万石となれば、幕府の執政官たる老中になり得る。つまり、六百万石とも八百万石とも言われる幕府そのものの権力を背景にした十万石なのである。

 部屋の左右両側には四枚ずつの襖が入っている。大名屋敷の黒書院の襖には、落ち着いた水墨の山水図が用いられることが多い。しかし、ここは金地着色の四季花鳥図だ。四季の野原や水辺の景色が、右側の手前から上段に向かって春と夏二枚ずつ、左側の奥から手前に秋と冬が二枚ずつ描かれている。

 すぐに気付いた。右奥の二枚、夏の部分だけが明らかに筆致も彩色も違う。

 八枚の中で、その二枚が断然優れている。時代も少しだけ古いだろうか。恐らく、その二枚が先にあって、他の六枚はそれに合わせて後から作られたのだろう。

 探幽の筆かな、と栄は思った。

 署名はないようだ。掛け軸や屏風などと違って襖絵には署名を入れないことも多い。貴人の居室を飾る場合は特にそうだ。

 夏の景色。たっぷりと余白を取った画面に主役として牡丹と白鷺が描かれている。周囲には小さな花々が咲き乱れ、小鳥も数羽飛んでいる。小川の流れと小さな滝の水しぶきが涼しげだ。

 何より白鷺が見事だ。一羽は川面に視線を向けて水中の餌を狙っている。もう一羽は、今まさに飛び立たんとしている。白い羽毛の質感から、わずかな風を感じる。これは、腕に差があり過ぎる。隣を描いた絵師がかわいそうだ。

 ふふ、獺は、いないなぁ。そうだ。あの時はまだ、かわうそ、という字も書けなかった。

 探幽の獺。それは、栄にとって、師・融川との懐かしい思い出である。

 栄は、浜町狩野家の画塾に入り、三年足らずで初等から中等課程まで修了し、師の名の寛信から「寛」の一字を与えられ、「寛好」の筆名を使うことを許された。
 通常、最初の一字拝領まで十年はかかる。年齢で言えば、二十代半ばでようやくたどり着くところである。それを栄は、わずか十一歳で得た。尋常な才能でないことが分かる。

 一字拝領を受けてから少し経ったある日、栄は融川から、同じ奥絵師四家の一角、鍛冶橋狩野家を訪れるので、供をするように命じられた。

 鍛冶橋狩野家は、探幽の後、才能ある当主に恵まれず、長期で低迷していた。奥絵師を出す資格を持つ名門でありながら、実際にその地位に就いた者はいなかった。
 その鍛冶橋家にようやく登場した俊才。それが、第七代・探信守道である。当時まだ十九歳。この時期、若くして家督を継いだ探信のため、他の奥絵師家の当主たちが定期的に訪れ、絵画修行の進捗状況を確認していた。融川の訪問もそれである。この時、融川二十六歳。比較的歳も近く、融川は探信のことを弟のように可愛がっていた。

 鍛冶橋家の書院で、上座に年長者の融川、下座に教えを乞う立場の探信守道が座っている。二人の間は畳二枚ほど。栄は、部屋の隅っこに控えていた。

 そこに鍛冶橋家の家老が、大事そうに大きな包みを抱えてやって来た。包みをほどき、融川と探信の間に、何か平たいものを置いた。ほぼ正方形で、畳半分ほどもある。片側が紐で綴じられている。
 栄は、画帖かしら、と思った。

次章に続く

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