【物語の現場007】きっかけの一幅・狩野融川筆「朝妻船図」(絵画紹介)
「融女寛好」の物語、栄と備中守の直接対決という大きな山を越えました。しかし、栄は、休む間もなく新たな敵との対峙を余儀なくされます。是非、最後まで見守って上げて下さい。
さて、ここで一幅の掛け軸を紹介します。
浜町狩野家第五代当主・融川寛信の筆による「朝妻船図」
「融女寛好」の第八章で、お栄さんが、融川が英一蝶の風刺画を模写していたことを回想する場面があります。そのモデルになった作品です。
狩野派に興味を持ち始めて比較的早い時期に入手しました。お堅い御用絵師が、狩野安信に破門され、さらに島流しにまでなった一蝶を好んでいたことに面白味を感じました。
これが融川に注目したきっかけ。そして、調べてみると、自分の作品にケチを付けた老中と口論し、下城途中に駕籠の中で切腹して果てた、というではありませんか。
狩野派にもこんなファンキーな絵師がいたのか、と驚きました。
この画はサラッと描かれたもので、値段もお手頃、普段掛けにちょうどよい。絵柄から、梅雨の前、少し蒸し暑くなってきた頃に掛けることが多いです。
そんな中、ふと、画よりも融川自筆の書の方に目が行きました。
繊細で流麗な筆跡。激情に身を任せていきなり腹を切ってしまうような人の書く文字とは思えない。むしろ、上品な教養人という印象です。そして、この違和感を持って見ると、融川が遺した他の作品も、異なる印象で見えてきました。
ますます面白いと思い、最初、融川本人を主人公にした物語を書くつもりでした。
しかし、激情的な彼と、繊細な彼と、どちらが本当の彼なのか、どうにも決め切れない。人物像がまとまらない。
そもそも、腹切りのエピソードが後世の創作という説もあります。しかし、もし創作なら、なぜ彼に限ってそんな話が生まれたのか。そこを掘り下げても面白いかな、などと考え始め・・・。
最終的に、匙を投げました。
幸い、融川について調べる中、一人の興味深い女絵師の存在を知りました。そこで、融川主人公案をポイと捨て、その女性の方に乗り換えてしまった次第です。
物語は融川の死から始まることになりました。そして、弟子、友、家臣、妻など、それぞれの立場から見た、それぞれの融川がいるように書いてみました。
作中でも少し説明させていただきましたが、約二十家あった江戸狩野の頂点を占める奥絵師四家の当主と雖も、全員が奥絵師(御医師並)の地位に就いたわけではありません。あくまで有資格者というだけです。
しかし、融川は、二十二歳という若さでその地位を得ています。やはり非凡なものがあったのでしょう。
本当にどんな人物だったのでしょうか。二年前、融川の墓を訪ねました。その時の写真と感想はまた後ほど。
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