遠藤周作『沈黙』⑶

Ⅵ。ロドリゴは遂に、数々の宣教師を背教させてきたという、老獪な井上筑後守と対面する。胸中の全く見通せない、隙のない人物像から、まるで読者である自分が取調べを受けているような、言い様のない緊張を感じた。
しかしながら、井上筑後守はロドリゴに即刻絵を踏ませるわけではなかった。もっと恐ろしいことがロドリゴを待っていた。


ロドリゴと井上筑後守の改まった対面ののち、私が泣きに泣いた場面の一つである、次のやり取りがある。ロドリゴを追ってずっとついてきたキチジローが、ロドリゴに、心の底から涙し訴えかける場面。

「じゃが、俺にゃあ俺の言い分があっと。踏絵ば踏んだ者には、踏んだ者の言い分があっと。踏絵をば俺が悦んで踏んだとでも思っとっとか。踏んだこの足は痛か。痛かよオ。俺を弱か者に生れさせおきながら、強か者の真似ばせろとデウスさまあ仰せ出される。それは無理無法と言うもんじゃい」
怒鳴り声は時々途切れ途切れては、哀訴の声に変り、哀訴の声は泣き声となり、
「パードレ。なあ、俺のような弱虫あ、どげんしたら良かとでしょうか。金が欲しゅうしてあの時、パードレを訴人したじゃあなか。俺あ、ただ役人衆におどかされたけん……」(中略)
「パードレ、聞いてつかわさい。悪うござりました。仕様んなかことば致しました。番人衆。俺は切支丹じゃ。牢にぶちこんでくれんや」

p.178-179

私はこの、キチジローの訴えにひどく同情した。弱い者には、強い者が理解できないような性質が備わっている。信仰にしろ信条(信念)にしろ、それを貫き通すことがこわいことだってある。まして、己の命がかかっているのならばなおさら。「俺は切支丹じゃ。牢にぶちこんでくれんや」という文句は、たしかに「一時の興奮」によるものかも知れない。だが、番人の前で臆病者が「俺は切支丹じゃ」などと口走れるものだろうか。

つらい場面は続く。
ともに捕えられていた日本人切支丹らの踏絵があった日、ロドリゴは処刑のその一瞬を目の当たりにする。この場面の描写は、まるで映画を文字で観ているかのようだ。処刑が終ったその場が淡々と片付けられたあと、語り手によりロドリゴの心中が描かれる。

彼が混乱しているのは突然起った事件のことではなかった。理解できないのは、この中庭の静かさと蠅の声、蠅の羽音だった。一人の人間が死んだというのに、外界はまるでそんなことがなかったように、先程と同じ営みを続けている。(中略)なぜ、あなたは黙っている。あなたは今、あの片眼の百姓が――あなたのために――死んだということを知っておられる筈だ。なのに何故、こんな静かさを続ける。(後略)

p.187

モキチとイチゾウが水磔により殉教した時にも増して、この一瞬の処刑の後の世界に、ロドリゴは”神の沈黙”を感じる。


Ⅶ。目も当てられぬ出来事が起きる。日本人切支丹の処刑、友の殉教。この場面に充てる感想は省く。

夏から秋へ、季節は移っていく。

ある時、ロドリゴは町外れから市中、市中から山近い寺へと連れ出される。その目的は、同郷の者であり、恩師であり、背教者たるクリストヴァン・フェレイラ、日本名を沢野忠庵と改められた人物と対面するためであった。
フェレイラはロドリゴに背教を奨め、そして、自身の耳の後ろにある傷痕を示す。それは井上筑後守が考案したという、拷問を受けた名残であった。
なおもロドリゴは背教の素振りも見せない。そこで、フェレイラは自身が経験してさとった、日本という国の特質を告げるのである。

「二十年間、私は布教してきた」フェレイラは感情のない声で同じ言葉を繰りかえしつづけた。
「知ったことはただこの国にはお前や私たちの宗教は所詮、根をおろさぬということだけだ」(中略)
「この国は沼地だ。やがてお前にもわかるだろうな。(中略)どんな苗もその沼地に植えられれば、根が腐りはじめる。葉が黄ばみ枯れていく。我々はこの沼地に基督教という苗を植えてしまった」

p.231

宣教師らが日本に持ち込んだ、キリスト教の”神”の観念と、日本人が受け取り解釈した”神”像は、果たして同質のものだっただろうか。宗教は、文化や風土の違いを乗り越えられたのだろうか。布教し、のちに背教したフェレイラと、布教の意志に燃え海を渡り、残されたわずかな日本人切支丹らを導こうとしてきたロドリゴとの空しい問答が広げられる。

「基督教と教会とはすべての国と土地とをこえて真実です。でなければ我々の布教に何の意味があったろう」
「日本人は人間を美化したり拡張したりしたものを神とよぶ。人間と同じ存在をもつものを神とよぶ。だがそれは教会の神ではない」
「あなたが二十年間、この国でつかんだものはそれだけですか」
「それだけだ」フェレイラは寂しそうにうなずいた。(後略)

p.236

仏教には、”菩薩”たる修行者が修行に励み、悟りを開いたものが”仏陀”という存在になる、という考え方がある。人から超人への移行は、”神の子”として生を受けたイエス(イエス・キリスト)の在り方とは大きく異なる。日本に古来よりあった”神”(カミ)の思想が、外来のキリスト教に少なからぬ影響を及ぼすことは避けられないだろう。
ロドリゴは「あなたは」「もう私の知っているフェレイラ師ではない」と言い放ち、対面は終わりをむかえる。


Ⅷ。頑として背教しようとしないロドリゴに、人間性を削いでいくような行為が降りかかり始める。はじめに、牢屋の外、街道を馬に乗せられ見せしめに晒される。ロドリゴは処刑をその先に予感していた。彼を引き連れた通辞ら一行は、奉公所に向かう。その道すがら、キチジローがずっとついてきていたことに、ロドリゴは気付いていた。

奉公所では、まず両手を広げるのがやっとの粗末な木製の囲いに入れられた。暗いその箱の中でロドリゴは、キリストのこと、死んだガルペのこと、キチジローのこと、そして”ユダ”のことについて考えを巡らせる。
そうであるのに、外界からは鼾のような音が聞こえてくる。あまりにミスマッチな状況に笑いがこみ上げてくるとともに、どろどろとした腹立たしさが沸き立つ。壁を激しく叩き、外の人間を呼ぼうとする。
やってきたのは、通辞であった。その後ろにはフェレイラも居た。

「あれを鼾だと。あれをな。きかれたか沢野殿、パードレはあれを鼾と申しておる」/司祭はフェレイラが通辞のうしろに立っているとは知らなかった。/「沢野殿、教えてやるがいい」
ずっと昔、司祭が毎日耳にしたあのフェレイラの声が小さく、哀しくやっと聞えた。
「あれは、鼾ではない。穴吊りにかけられた信徒たちの呻いている声だ」

p.259

衝撃だった。愕然とした。
通辞が退いたあと、フェレイラは語りかける。

「わしもあの声を聞いた。穴吊りにされた人間たちの呻き語をな」(中略)
「わしが転んだのはな、いいか。聞きなさい。そのあとでここに入れられ耳にしたあの声に、神が何ひとつ、なさらなかったからだ。わしは必死で神に祈ったが、神は何もしなかったからだ」

p.260-262

もはや、ロドリゴには当初のような意志は無くなっていた。
果たして、ロドリゴは踏絵を踏んだ。彼の足は痛かった。

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