遠藤周作『沈黙』⑶
Ⅵ。ロドリゴは遂に、数々の宣教師を背教させてきたという、老獪な井上筑後守と対面する。胸中の全く見通せない、隙のない人物像から、まるで読者である自分が取調べを受けているような、言い様のない緊張を感じた。
しかしながら、井上筑後守はロドリゴに即刻絵を踏ませるわけではなかった。もっと恐ろしいことがロドリゴを待っていた。
ロドリゴと井上筑後守の改まった対面ののち、私が泣きに泣いた場面の一つである、次のやり取りがある。ロドリゴを追ってずっとついてきたキチジローが、ロドリゴに、心の底から涙し訴えかける場面。
私はこの、キチジローの訴えにひどく同情した。弱い者には、強い者が理解できないような性質が備わっている。信仰にしろ信条(信念)にしろ、それを貫き通すことがこわいことだってある。まして、己の命がかかっているのならばなおさら。「俺は切支丹じゃ。牢にぶちこんでくれんや」という文句は、たしかに「一時の興奮」によるものかも知れない。だが、番人の前で臆病者が「俺は切支丹じゃ」などと口走れるものだろうか。
つらい場面は続く。
ともに捕えられていた日本人切支丹らの踏絵があった日、ロドリゴは処刑のその一瞬を目の当たりにする。この場面の描写は、まるで映画を文字で観ているかのようだ。処刑が終ったその場が淡々と片付けられたあと、語り手によりロドリゴの心中が描かれる。
モキチとイチゾウが水磔により殉教した時にも増して、この一瞬の処刑の後の世界に、ロドリゴは”神の沈黙”を感じる。
Ⅶ。目も当てられぬ出来事が起きる。日本人切支丹の処刑、友の殉教。この場面に充てる感想は省く。
夏から秋へ、季節は移っていく。
ある時、ロドリゴは町外れから市中、市中から山近い寺へと連れ出される。その目的は、同郷の者であり、恩師であり、背教者たるクリストヴァン・フェレイラ、日本名を沢野忠庵と改められた人物と対面するためであった。
フェレイラはロドリゴに背教を奨め、そして、自身の耳の後ろにある傷痕を示す。それは井上筑後守が考案したという、拷問を受けた名残であった。
なおもロドリゴは背教の素振りも見せない。そこで、フェレイラは自身が経験してさとった、日本という国の特質を告げるのである。
宣教師らが日本に持ち込んだ、キリスト教の”神”の観念と、日本人が受け取り解釈した”神”像は、果たして同質のものだっただろうか。宗教は、文化や風土の違いを乗り越えられたのだろうか。布教し、のちに背教したフェレイラと、布教の意志に燃え海を渡り、残されたわずかな日本人切支丹らを導こうとしてきたロドリゴとの空しい問答が広げられる。
仏教には、”菩薩”たる修行者が修行に励み、悟りを開いたものが”仏陀”という存在になる、という考え方がある。人から超人への移行は、”神の子”として生を受けたイエス(イエス・キリスト)の在り方とは大きく異なる。日本に古来よりあった”神”(カミ)の思想が、外来のキリスト教に少なからぬ影響を及ぼすことは避けられないだろう。
ロドリゴは「あなたは」「もう私の知っているフェレイラ師ではない」と言い放ち、対面は終わりをむかえる。
Ⅷ。頑として背教しようとしないロドリゴに、人間性を削いでいくような行為が降りかかり始める。はじめに、牢屋の外、街道を馬に乗せられ見せしめに晒される。ロドリゴは処刑をその先に予感していた。彼を引き連れた通辞ら一行は、奉公所に向かう。その道すがら、キチジローがずっとついてきていたことに、ロドリゴは気付いていた。
奉公所では、まず両手を広げるのがやっとの粗末な木製の囲いに入れられた。暗いその箱の中でロドリゴは、キリストのこと、死んだガルペのこと、キチジローのこと、そして”ユダ”のことについて考えを巡らせる。
そうであるのに、外界からは鼾のような音が聞こえてくる。あまりにミスマッチな状況に笑いがこみ上げてくるとともに、どろどろとした腹立たしさが沸き立つ。壁を激しく叩き、外の人間を呼ぼうとする。
やってきたのは、通辞であった。その後ろにはフェレイラも居た。
衝撃だった。愕然とした。
通辞が退いたあと、フェレイラは語りかける。
もはや、ロドリゴには当初のような意志は無くなっていた。
果たして、ロドリゴは踏絵を踏んだ。彼の足は痛かった。
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