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やくもの蔵 #パルプアドベントカレンダー2021

 師走も半ばを過ぎた頃。迫るクリスマスの喧噪を他所にして、僕は「丹砂精神文化研究所」と書かれた雑居ビルの一室にいた。正面にいるのは初老の男性。応接用デスクを挟み、僕は彼と向かい合っていた。
 玄冬厳男。先ほど出した名刺には、とあるグループ企業の名誉会長と肩書きが記されていた。本来、僕のような若造が対等に話せる相手ではないのだが、抱える事情故か彼がそのことに不満を覚えている様子はない。
 僕は改めて、玄冬が先程差し出した一枚の写真を手に取る。写っているのは、椅子に腰かけて窓の外へ視線を向ける和装の女性。モノクロの写真ながら、彼女の雰囲気は窓から差し込む光の柔らかさも相まって見てるだけで心が和んでくる。
「ポートレートですか? いいお写真ですね。奥様のお若い頃でしょうか」
 玄冬の隣には女性が立っていた。よく言えば冬らしい、悪く言えばとても色合いが地味な服装。同じく地味だが、いかにも肩書きがありますと言わんばかりに仕立てがいいスーツの玄冬が連れて歩くと、少しアンバランスに見える。
「はは、いやまさか。これは妻などではありません」
 彼女は玄冬の言葉に眉一つ動かさない。玄冬と同じ年頃に見えたが、もしかしてこの人は夫人ではないのだろうか? 先ほど椅子を勧めても彼の隣に座ることを固辞した辺り、秘書か何かかもしれない。
「写っているのは祖母の妹、つまりは大叔母です。とはいうものの、大叔母はその写真が撮られたしばらく後にこの世を去ったそうですが」
「それは……お気の毒に」
 僕は写真を玄冬へ返す。彼は受け取った写真を懐へ大事そうに仕舞いながら続けた。
「ただ、私は幼い頃に彼女に会ったことがあるんです。その写真に写る通りの大叔母に」
 ――おかしな話だ。写真の女性は10代後半か、せいぜい20代前半。夭折したというのであれば、姉の孫である玄冬に会えるはずがない。

「なるほど、私好みのご依頼のようですね」
 その時、沈黙を保っていたこの研究所の主が声を発した。革張りのリクライニングチェアが回転し、マホガニーの机を前に、大仰な調度類とは不釣り合いな姿が現れる。
 腰に届かんばかりの長い黒髪に、光沢のない黒のワンピース。彫りは浅いながらも整った顔立ちだが、それを台無しにするようにラウンドレンズの黒いサングラスが顔の中心に鎮座している。人影がそのまま立ち上がったかのような黒一色のいでたちのなかで、柘榴のような赤い宝石が銀の鎖に繋がれ胸元で揺れていた。
 丹砂さん。この名ばかりの研究所の主にして、僕の雇い主。表通りを離れたこの雑居ビルには時折、どこかから彼女の評判を聞きつけた依頼人が現れる。学生、お大尽、専業主婦、極道、サラリーマン、代議士、芸能人、ホームレス。決まって彼らが頼み込むのは、おおよそ常人の理解が及ばぬものに纏わる内容だった。
「死ぬ前にもう一度、彼女に――やくもに会わせて下さい」
「なるほど、お聞かせいただきましょう」
 そして玄冬は促されるまま、その「やくも」との思い出を語り始めた。

 私は幼い頃、喘息を患っておりまして。それほど症状はひどくありませんでしたが、跡取りに何かあってはと療養のため父方の郷里に預けられていました。とはいえ遊びたいざかりの子供。大人しくしていられるはずがありません。しかし生憎同じ年頃の子供がいなかったため、私は遊ぶ相手もおらず時間も体力も持て余しておりました。

 ところでその屋敷には、裏に蔵がありました。古い家でしたのでそれなりに価値のあるものは倉庫に抱えておりましたが、それらを仕舞うのとはまた別に古びた蔵があったのです。何か別の用途があるとも思えません。家人にあの蔵は何なのか、どうしてそのままにしているのか尋ねたこともありましたが、答えはなくいつもはぐらかされるばかり。それどころか蔵に興味を抱いたことを咎められる始末です。業を煮やした私はある時、その蔵へ忍び込むことにしました。しかし蔵の扉には重い錠前が掛かっており、中へ入ることは叶いません。仕方なく私は蔵の周りを歩いてみました。
 そして、私は彼女と出会ったのです。

 彼女を見たのは、蔵の窓越しでした。始めは私に気付いていなかったものの、私が何度か呼びかけるうちに声が届いたのかようやく目が合いました。その時微笑みかけた彼女の顔、今でも目蓋に浮かぶようです。
 あなたは誰なんだ、どうしてそんなところにいるんだ。そう尋ねたものの、彼女は黙って微笑んでいるだけでした。どうにかして蔵の中へ入ろうと試みましたが、古い蔵は思った以上に頑丈で壁に穴などなく、錠前は錆びていても子供の力ではびくともしません。やがて日が傾き、家人に怪しまれることを不安に思った私は「また来るから」と彼女に声をかけ、その場を立ち去りました。

 ただ、その後夕食を済ませた頃でしょうか、急に高熱を出して倒れてしまったのです。喘息の症状とも異なる全く原因不明なもので、近くの医者が呼ばれましたが何分村医者ですからろくな診断ができず、せいぜい解熱剤を処方した程度でした。私は一人奥座敷に寝かされ、朦朧としつつも息苦しさで眠ることさえできず、ただ天井を眺めておりました。
 すると、いつからそこにいたのでしょうか。あの蔵で窓越しに見た彼女が、布団の傍らに座っていたのです。声も出せない私の額に、彼女は手を当てました。その冷たさで息苦しさも和らぎ、いつしか眠りに落ちていました。

 後日、私はもっと良い医者に診せるためと父親に呼び戻されたのですが、家に帰る前に私はすっかり調子を取り戻しておりました。きっと彼女が何か、私を助けてくれたに違いありません。

「ただ……その後彼女は何者なのか、誰に尋ねても『馬鹿なことを言うな』と相手にされませんでした。彼女がすでに死んでいて、あの蔵には当時誰もいなかったと知ったのは随分後のことです。この写真も私が父の仕事をある程度継いでから、ほうぼうの伝手を辿りようやく手に入れたものです」
 玄冬は写真を仕舞った胸に手を当てながら目を伏せた。
「ただ私もこの歳になり、体の自由が利かなくなってきた。会社もほとんど倅に任せております。好き勝手に生きてきたので、今更心残りはない。そう思っていたのですが……」
「死に目に愛しい人と再び会いたくなった?」
「お恥ずかしい限りですが」
 丹砂さんの言葉に、玄冬が頬をかく。丹砂さんは白磁のような白い指を形のよい顎に当てて僅かな間考えこんだが、すぐに頷いて答えた。
「分かりました。彼女との再会、お手伝いさせていただきます」

 玄冬の話に出てきた錠前は、借り受けた鍵によってあっさりと開いた。あまり目にしない舟形錠前だったため、開錠の方法が分からず手間取る時間のほうが長かったほどだ。
「足元、気を付けて下さい」
 蔵の中は空っぽだった。中のものは持ち出された後なのだろうか。やけに天井が低く、歩きづらいことこの上ない。窓も少なく光量も十分でないのは蔵の中に納めたものが劣化しないためだろうが、それにしたってもう少し使いやすくはできないものだろうか。
 僕たちは「準備のため」と玄冬から鍵を借り受け、彼に先立って正午前には彼の郷里に到着していた。とはいうものの、村はすでに廃村となって久しい。人の姿もなく、蔵の周囲は荒れるに任せるといった様子だった。
 鍵さえ開けば扉は思ったよりもすんなりと開いた。開き切ってから扉止めを噛ませ、丹砂さんを中へ促す。彼女はいつもの黒づくめに、寒さのためかこれまた黒のウシャンカとケープを足している。だが暗い蔵の中でさえ、サングラスは外さない。
 彼女は、所謂「見える人」だ。だがあまりに見えすぎると、それはそれで余計な厄介事を招く。そのため対策として、こんなものを掛けているのだそうだ。「サングラスで見えにくくなるのは生きている人間だけですから」と嘯いていたものの、凡庸な僕ではそれが真実かどうかなど分かるはずがない。それでも、彼女は本物だ。僕が肝試しで訪れたある廃墟に纏わるトラブルに見舞われた時も、丹砂さんは多少の問題はあるものの解決へと導いてくれた。

「いますね、上です」

 何が、とは言わない。僕は手元の鍵束に括られている、もう一つの鍵を見た。蔵の奥には二階へと続く階段が一つ。階段というより段のついた厚い板という粗末なもので、幅も狭く、手すりもない。それでも二人分の体重を支える程度には問題がないようだった。丹砂さんに先立ってその一段目へと足をかけた。
「危ないので手、どうぞ」
 そう言って掌を丹砂さんを差し出すと、彼女は目をしばたたかせた。
「葵君。君、学校でも女の子にはこういう事を?」
「まぁ、割と。それが何か?」
 丹砂さんは何事かぶつくさと呟きつつ納得がいかない様子だったが、僕の手を取る。
 階段の先を防いでいた天井の一部を押し開けると、光が差し込む。玄冬の言っていた通り、蔵の二階には窓が備わっているのだろう。玄冬が彼女、やくもを見たというあの窓。だが――
「これは、何ですか」
 丹砂さんを引き上げた後、僕の口からはそんな言葉が漏れる。陽光差し込む蔵の二階は、巨大な木の格子で区切られていた。大人の腕ほどもある木が幾本も籠目模様を為し、此方と彼方とを隔てている。格子の向こうには寒々とした板張りの空間。窓際には場違いな椅子と、そして鏡の曇った鏡台が置かれていた。
「まるで檻か何かじゃないですか」
「いえいえ、これは檻そのものです」
 僕の後ろから丹砂さんが覗き込んで言う。なぜか少しうきうきしているように感じるのは、僕の気のせいだろうか。
「素晴らしい。これは期待していたよりも楽しいお仕事になりそうですよ」

「すみません、お待たせしました」
 すっかり日が落ちた頃、冷え切った空気のなかを玄冬は白い国産車に乗って現れた。運転席には先日事務所で会ったあの女性が座っている。
「これが準備に手間取りまして、いや全く女というものはこれだから」
「時間通りですよ、お気になさらず。準備は済ませてありますので」
 中へ、と誘う丹砂さんは桐箱を一つ抱えている。事務所の倉庫から持ってきたいくつかの荷物のうち一つだ。「これから」必要になるらしいが、よほど大事なのか僕には決して触らせようとはしなかった。
 蔵へ進もうとした玄冬を、車から降りた女性が呼び止めていた。彼女の手にはステッキが握られている。何事か話しているようだが、距離があってここからは聞こえなかった。恐らく玄冬を気遣ってステッキを渡そうとしているものの、彼は頑として受け取らない。どうしたものか、と逡巡していたとの時。
「……いらないと言っているだろう!」
 怒声を張り上げた玄冬は、杖をもぎ取ると女性目がけて振り下ろした。
「ちょっと、何をやっているんですか!」
 止める隙もなかった蛮行を咎めるが、玄冬はお構いなしに再びステッキを振り上げる。それが振り下ろされるより早く、僕は玄冬を羽交い絞めにした。
「女の分際で、男のやることにいちいち口を出しおって! 黙って後ろから来ておればいいんだ!」
「落ち着いて下さい……クソ、何なんだこの爺さん!」
 尚も杖を振り下ろそうともがく玄冬。だが彼と蹲る女性との間に、丹砂さんがす、と立った。
「そこまでにしておきましょう、玄冬さん」
 視線を蔵に向けながら丹砂さんが続ける。
「あまり騒がれると、やくもさんも気にされるのではないでしょうか」
 その名前を聞くや否や、玄冬の身体から力が抜けたのが分かった。杖から落ちた手を、丹砂さんは素早く蹴り飛ばす。
「……ああ、そうだな。彼女に、やくもに悪いものな」
 うわ言のように言うと、玄冬は何もなかったかのようにふらふらと蔵の方へ歩いて行った。その背中を見送ってから、女性に手を差し出す。「大丈夫ですか?」と声をかけるものの、彼女は何も言わず力なく立ち上がると車へと戻って行った。
「……どうしましょう?」
 丹砂さんに尋ねるも、彼女もまた黙ったまま首を横に振る。放っておけ、ということか。運転席に座った彼女は虚ろな目のまま、ただそこに座している。その風景を背にして蔵へ向かおうとした時だった。
「お嬢さんだそうですよ」
 前を行く丹砂さんの言葉に、え、と馬鹿みたいな声を漏らした。最初、その言葉が何を、誰を指しているのか理解できなかったからだ。
「車に戻ったあの女性、玄冬氏の次女だそうです」
 僕は振り返りたい衝動を必死に堪え、先程の光景を反芻していた。玄冬に杖で殴られながらも、何も言わずただ耐えていた老年の女性。その見目はどう考えても父親と娘という風ではない、はずなのに。御冗談を、などと言えるような雰囲気ではなかった。
 玄冬の娘であれば、せいぜい僕の一、二回り上くらいであろう。年齢が顔に出にくい、出やすいというものに個人差があるのは分かる。だが、どれほどの環境に置かれれば玄冬と同じ老年と見紛うほどの容貌になるのか。
 僕は背後の車から言葉にし難い冷たさを感じながらも、丹砂さんの後を追った。

 蔵の二階、格子の内側には斎場が整えられていた。二段式の八脚案には米、塩、酒などの神饌とともに燭台が並べられ、蝋燭の放つ橙色の光が室内を朧気に照らしている。並べられた胡床は三つ。うち一つにはすでに玄冬が静かに座していた。先ほど激高していた老人と同一人物とはとても思えない。
 白衣白袴に着替えた丹砂さんは桐箱を開くと、中から一枚の鏡を取り出す。円形の、一切の装飾がない鏡。準備を終えた丹砂さんは、祓戸に置かれていた大幣を取ると玄冬と僕の前で三度振り、修祓を行なう。続けて案の前に正対すると、蝋燭の火を消した。光源が失われ、蔵は夜の闇へと沈む。

 古来、神事のなかでも重儀に当たるものは夜、それも新月を選んで執り行われてきた。本来、神事は人が目にするものではないからだ。
 明かりが失われ、聞こえるのは丹砂さんが立てる衣擦れの音のみ。続けて「おお」という声が蔵の中に響く。彼女が発しているのは、音によって畏怖を促す「警蹕」だ。これは所謂神事における「降神」。そして警蹕とともに降神詞が唱えられれば、いよいよ神体に神が宿る。
 だが、これは神降ろしを目的とした儀式ではない。来るはこの蔵に眠る「やくも」と呼ばれるもの。玄冬が焦がれ続けた、神ならざるものだ。厳かに続く詞に耳を傾けながら、僕はただその時を待った。

 最初は、闇に眼が慣れたのだと思った。ぼんやりと丹砂さんの白装束が闇に浮かぶ。だが窓に目を向けると、星の光すら瞬いていない。蔵は未だ闇の中にあるはずだった。では、どこに光があるのか。
 答えは祭壇の上だった。上位に鎮まる鏡が淡い光を放っている。何かの光を反射しているのではない、それ自体が光っているのだ。
「どんながらくたでも、百年経てばそれなりの力を得ます」
 こちらが気付くのを見計らったかのように、丹砂さんが口火を切る。
「それが元々特別な器物であれば、効果は一層でしょう。この鏡は私の先祖がとある禁域の島より持ち出し、以降夜ごと月の光を浴びせたものです。いつしか自ずから光を放つに至ったこれを、我が家では『照妖鏡』と銘打ちました」
 光は意志を持つかのようにゆっくりと伸び、蔵の一点を指す。そして元からそこにいたかのように、光の中に人影が滲み出た。
「や――」
 玄冬が胡床から立ち上がる。その人影――肩で切り揃えた髪から物憂げな視線を覗かせる、和装の女性に、身体を震えながら歩み寄った。
「やく、も」
 これが、そうなのか。この老人が焦がれた、生前には会うことのなかった大叔母。玄冬は跪き、彼女の足元に首を垂れる。その口からは「やっと会えた」「これで報われる」と、嗚咽交じりの言葉が漏れていた。
 ……はっきり言って、気持ちのいい光景だった。家庭の事情というものはあるだろう。彼とその娘に、いかほどの確執があるかは知らない。だが今僕たちに見せている情動のほんの一部でも、あの女性に注ぐことはできなかったのだろうか。
 「やくも」は何も言わず、ぼんやりと足元の玄冬を眺めている。彼女からしてみれば、彼は過去に一度窓越しに見ただけの存在だ。姿形も当然変わっているだろう、同一人物だと認識できていないのかもしれない。いや、幽霊に海馬などないのだから、記憶を保持できないのは当たり前なのだが。
 だが何故かその顔に、僕は違和感を覚えた。何かが、引っかかる。

「……申し訳ありません、みっともないところをお見せしました」
 玄冬が顔を拭いながら立ち上がる。泣いていたのだろうか。
「丹砂さん、やはりあなたにお願いしてよかった。本当に彼女と再会できるとは」
「私もお力になれて光栄です、玄冬さん」
「それで、申し訳ないのだが」
 玄冬が気恥ずかしそうに言葉を続ける。
「少しだけ席を外してはもらえないだろうか。久しぶりの再会だ、できれば二人で時間を過ごしたい」
「それは構いません。その前に一つお伺いしたいのですが――」
 深い海を泳ぐ深海魚のように、暗闇のなかで丹砂さんの白い指が翻り「やくも」を指し示す。
「彼女に、見覚えはありませんか?」
 呆気に取られる僕と玄冬。見覚えがあって当然だろう、彼女は玄冬が長年追い求めていた女性だ。丹砂さんだって、それを承知で彼女を呼んだのだ。呼んだ、はずなのだ。
「何を、当たり前のことを」
 玄冬の声に苛立ちが混じる。彼からしてみればこれ以上の長居は待ち望んだ逢瀬の邪魔でしかない、できればこんな問答など早々に終わらせて出て行ってもらいたいはずだ。
「彼女は『やくも』だ、私は彼女と再び会うことだけを夢見てきた。丹砂さん、あなたに恩義はあるがこれ以上は遠慮を――」
「ああ、何とお可哀想に」
 玄冬の言葉を静かに、しかし有無を言わさず打ち切る。
「残念ですが彼女は『やくも』さんではありません。長年ここに縛られていたお人は、先程神上がられました」
「かむあ……何だと?」
「失礼、神式で執り行いましたものでそういう言い方になりました。有り体に表現すれば、成仏したということですね。やり方が神式であっただけで、彼女が如何なる冥界へ赴かれたかは分かりかねますが」
 確かに丹砂さんは祭壇の準備が整うと、「やることがある」としばらく僕を追い出し、しばしの間蔵に一人で篭もっていた。「神上がらせた」とすれば、その時だろう。しかし。
「な、何だってそんなことを、ではこの女は一体――」
 玄冬の言う通りだ。もし「やくも」がすでにこの蔵にいないとしても、事実今僕たちの前には「やくも」らしき女性が見えている。その存在が何かしらのトリックだとはとても思えない、だいいち今日の荷物を事務所から運んだのはほとんど僕だ。丹砂さんだけで準備できるような代物ではない。彼女は涼しい顔で言葉を重ねる。
「最初におかしいと思ったのは、あなたがここに未だ『やくも』さんがいるという確信をお持ちだったことです。それこそ成仏するなり、この場所を去ってしまったという可能性を一切考慮せずに。加えて、この蔵です」
 とん、と丹砂さんはつま先で床を突いてみせる。
「こういう生業ですから、蔵に見せかけた私宅監置の場所――座敷牢など見飽きております。これが言葉通りの『蔵』ではないことなどすぐに分かりました。時代がかった舟形錠前に、人が一人昇るのがやっとの階段。神宮の御装束神宝などは『神が用いるものを人に倣って仕立てる必要はない』と、わざと大きさを尋常の道具とは異にして作ることがあるそうですね。この蔵も人が使うものではないという理由で故意に使いづらい意匠にしてあるのでしょう。加えて、その格子です」
 丹砂さんが、僕たちのいる蔵を区切る格子を示す。三方に木が組まれ、籠目を為す格子。これが本当に座敷牢ならば、あまりに装飾的だ。
「籠目は魔除けに用いられることもあります、邪なものが通るのを阻むとか。ですがこの籠目は通るのを阻むというより、出られなくしていたのでしょうね。『やくも』さんを」
「それが、何だっていうんだ」
 玄冬が絞り出すように呻く。
「我が家は家神を作り出すことで祀り栄えてきた。『やくも』が姿を現さなくなってからは経営も躓き金は出ていく一方だ、別の手段を考えたが結局は無駄だった。だからあんたに頼んだんだ! それを、あんたは何をしでかしてくれたんだ!」
 家神、一家を守護すると信じられてきた神。多くはその家の祖先が神格化された存在だという。妖怪の「座敷童」と言えば通りがいいだろう。彼の家は、それを故意に作り出していたということか。
 今にも殴りかかるのではないかという勢いで喚く玄冬。その姿は最初に見た年相応の老人ではなく、まるで玩具を取り上げられて喚く子供のようだった。だが丹砂さんは、彼の激高などまるで意に介していないかのようにため息をつく。
「『別の手段』ですか。何をされたか見当はつきますが、それを口にしてもまだお分かりにならないのですね。彼女が」
 怒りに震える玄冬を横目に、丹砂さんの指が動く。「やくも」ではない、誰かに向けて。
「あなたの、娘だということに」
 物言わぬまま浮かんでいた彼女の顔を見て、ようやく先程の違和感が何か分かった。似ているのだ、その顔が。今は車で待つ、あの玄冬の娘だという女性と。
「何かしらの理由で『やくも』さんが姿を現さなくなり、焦ったあなたは次の家神を作ろうとした。それが失敗したので、外部に話が漏れることも厭わず私を頼ったという経緯でしょうか。お二人目のお嬢様を『使う』前に私を頼ってくれて助かりました、きっと次も失敗していたでしょう」
「な、な――」
 流暢に語る丹砂さんに異論を挟むこともできす、玄冬は口をぱくぱくとさせている。
「『何故知っている?』と仰りたいのであれば、簡単です。『やくも』さんから聞きました。あなたは何か重大な理由があって彼女が姿を消したと思っているようですが、話はもっと単純です。愛想を尽かされたのですよ」
「馬鹿を言うな!」
 再び激高した玄冬は、先ほど己の娘を打ち据えたいた時と同じ顔をしていた。僕は丹砂さんを背にするように玄冬との間に立ったが、彼は僕に目もくれずわめき続ける。
「ずっとそうやってきた、上手くいっていたんだ! それが、私の代で仕舞いだと? 冗談じゃない。社員だってまだまだ食わせていかなきゃならん、女どもだって納得しているはずだ! それをお前みたいな、拝み屋風情の女に邪魔建てされて――」
「『やくも』さんは」
 丹砂さんの声はそれほど大きくも、強くもない。だが彼女の声は割り込むことを許さない圧がある。まるで神託を齎す巫覡のように、言葉に耳を傾けねばならないと強く感じさせる。
「都会から来たあなたを見た時、一族の女性を材料に家神を作るなどという愚行を終わらせてくれると信じたそうです。聡明で、利発そうなお子さんだったのでしょうね。だからあなたが再びこの地を訪れた時、累代の呪いを止めるどころか喜んで進めようとしたことを、とても残念に思った。だから姿を現さず、あなたの家の隆昌にも手を貸すことも止めた。家神としての在り方を捻じ曲げることはとても負担だったそうですが、その結果あなたが娘を家神に仕立て上げようして終には死なせてしまったことを、ひどく後悔しておられました」
「それで『やくも』を成仏させた上にこの出来損ないの娘を家神もどきにして私の前に出したのか。御苦労なことだよ」
「ええ。家神としては不十分だったのですがお姿を現すだけなら鏡でお手伝いするだけで済みました。あ、でも誤解のないように言っておきますが『やくも』さんを神上がらせたのはついでです。あなたが嫌がるだろうなって」
「は?」
 彼女のあっけらかんとした言葉に呆けた声を発したのは、果たして玄冬だったのか、僕だったのか。少なくとも僕ら二人は、同様に間の抜けた丹砂さんを見返していた。
「最期まであなたを気にかけていらっしゃったようなので、もう説得するのが面倒になって『えいやっ』とやっちゃいました。もうちょっと強く抵抗されたらどうなるか分かりませんでしたね、流石は家神様です」
「……訳が分からない。なぁ君、彼女はいつもこうなのか」
 耐えきれなくなったのか、玄冬が僕に話しかけた。そう言われても困る、ここまでハイになった丹砂さんを見る機会はあまりないのだ。
「そういうことなので、後は親子水入らずでやって下さい。彼女もそろそろお預けは可哀想なので」
「ちょっと待ってくれ、親子って……」
 いつの間にか、「娘」が玄冬の近くへ移動していた。そして見間違いでなければ、彼女は笑みを浮かべている。微笑みなどではない、何がおかしいと感じているか知りたくもない厭な笑みだった。
「……忘れるところでした。なぜこんなことをしたかお教えしていませんでしたね」
 「彼女」が玄冬の頬に手を伸ばす。足がすくんでいるのか、それとも他の理由があるのか、彼は震えたままその場から動けないでいる。見せつけるようにゆっくりと、「彼女」の手が玄冬に触れた。
「私、舐められるのが嫌いなんです」
 辛うじて僕たちの視界をを照らしていた鏡の光が、ふつりと消える。
「あ、あ――」
 再び訪れた闇のなかで、玄冬の喉から絞るような、漏れるような悲鳴が薄く響く。「彼女」が彼に何をしているのかは分からない、できればこのまま分かりたくない。蔵の中に長々と響いていた老人の声はやがて収まり、丹砂さんが再び祭壇の蝋燭に火を灯す。再び橙色の光で照らされた蔵の中には恐ろしい笑みの女などおらず、床に倒れ伏した老人がいるだけだった。

 師走の喧噪はこの事務所とは相変わらず縁遠い。丹砂さんはあの日から機嫌がいいようで、今日は鼻歌を歌いながらあの鏡を磨いていた。
 どのような報いを受けたのか。あの日、全てが終わった後も玄冬は目を覚まさなかった。僕がほとんど引きずるようにして彼を蔵の外へ連れ出すと、彼の娘は眉一つ動かさず物言わぬ父親とともに車で去っていった。まさか彼女は全て知っていたのか、という考えが頭を過ぎったものの、最早全ての問題は僕の手を遠く離れてしまった。きっと彼は二度と目を覚ますことはないだろうが、少なくとも彼の会社が倒産したという話は届いていない。
「娘の顔も分からないようだから、ああいうことになるのでしょうね」
 ふと、丹砂さんが呟く。「え?」と聞き返すも、続く言葉はない。僕に聞かせたのか、それとも自分に言い聞かせるためだったのか。

 丹砂さんがこういった依頼を引き受けるのは、何も慈善事業ではない。金銭のためでもない。畢竟、自分にとって理があるかどうかなのだ。僕がある災禍に見舞われて彼女を頼った時も、救われたのは「そろそろ助手が欲しくなった」という理由だと聞かされた。玄冬を騙したのは「自分を甘く見た意趣返し」という理由だけだったとしても、僕にとっては特段驚くことではない。
 災禍の原因となった廃墟へ僕を連れて行った友人たちは、多かれ少なかれ何かしらの傷を心に追ってしまった。日常生活を送れているならまだいい方で、特殊な病院から出られなくなった者もいる。もし最初に彼女を頼っていたのが彼らの方であれば、代わりに僕がそうなっていたはずだ。
 友人たちが一人、また一人と救われることなく脱落していくのを見終えた時、僕は丹砂さんの傍に居続けることを選んだ。大した理由はない、それだけ彼女が魅力的に思えたのだ。死者への畏怖も先人への畏敬もなく、ただ刹那的な享楽のためほとんど墓荒らしのように廃墟で振る舞う愚かな友人たちを見殺すには十分過ぎる理由だった。

「……さて」
 磨き終えた鏡を「招妖鏡」と書かれた桐箱に仕舞うと、丹砂さんはサングラス越しに僕を見た。
「どうせもうお客も来ないでしょうし、今日は早めに閉めてご飯にでも行きませんか。奢りますよ?」
「ありがたいお話ですが、クリスマス前に部下とサシで食事ですか。もしかして丹砂さん、他に友達いませんね?」
「君は最近著しく可愛げがなくなりましたね。減俸しようかしら」
 軽口を叩きながら、丹砂さんは事務所のキーを取り出す。
 僕に与えられたのは、こういう「気が置けない部下」の役割だ。それを忠実にロールしていれば、しばらくは彼女のもとにいられるだろう。だが、僕もあの玄冬と同じだ。いずれきっと、友人たちを見捨てた報いを受けるだろう。

――どうかその報いが、丹砂さんによって齎されればいいのに。

 嬉しそうに身支度する彼女を見ながら、僕はぼんやりとそんな風に思った。

<了>

Q.この話は何ですか?
A.クリスマスに相応しい、「ゴースト ニューヨークの幻」みたいは話を書こうと思ったんです。

 御高覧いただきありがとうございます。桃之字さん企画「#パルプアドベントカレンダー2021」参加作品です。最初っからクリスマスも何もない「蔵に出る女」をテーマに書いていたところ、「他人を珍しい虫くらいにしか考えていない女性に振り回される話を書きたい」という欲求が増してきたためこのようになりました。初めてのジャンルでしたが、いかがだったでしょうか。
 明日はタイラダでん大哥の『尾上月子は顔が怖い』が投稿される予定です、謹んでその時を待ちましょう。それでは改めてお読みいただきありがとうございました。

甲冑積立金にします。