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卑しき神の名において

 夕刻、雨が降っていた。
 まるで天の盃の底が抜けてしまったかのように感じられる土砂降り。排水溝は最早意味を為さず、道路は丸ごと水路となっていた。歩くのすら困難という有様で、外を出歩く者など皆無に近い。
 そんな中を、少女が走っていた。傘も差さず、一心不乱に、ただ時折後ろを振り向いては何かを確かめる。よほど逃れたいものがあるのだろう。濡れた長い黒髪を振り乱し、少女は走り続けた。

 やがて少女は橋のたもとへ辿り着いた。川は増水し、濁った奔流がどうどうと音を立てている。
 もう大丈夫だ、この橋を渡りさえすれば――何の根拠もない。ただ少女は、疲れた体に鞭を打ち、最後の力を振り絞るためだけにそう言い聞かせた。立ち止まり、しばしの間体を休める。そして橋を渡ろうと足を踏み出した時、ようやく橋の向こうの人影に気が付いた。

 黒い傘を差したその男は、これから弔問にでも行くかのような黒ずくめだった。陰になっている顔はよく見えない。だが少女にははっきりと分かった、その視線が間違いなく自分を捉えていると。

 ――これで、あなたは人ではなくなったわ。天津罪にも国津罪にも縛られず、人の法など意に介さず、己の心の赴くままに生きればいい。

 奇怪な女の勧めるまま、妙な酒を呑まされて人間を辞めた時のことを思い出す。

 ――ただ、一つだけ憶えておくといいわ。いつか、あなたの元に必ず"最期"が来るわ。その時は、せいぜい足掻いてみせてね?

 何が面白いのか、級友の返り血を浴びた少女に向けて女はからからと笑いながらそう言ってみせた。そう、最早人間ではないのだ。だから死ぬ必要もない、誰を殺したとて咎められる謂れはない。なのに、どうして――

「どうして、私が死ななきゃならないのよ!」

 少女の体がぐずりと崩れ、髪の毛が絡まり合った怪物のような姿に変貌する。応じるように、黒服の男が傘を投げ捨てる。その向こうで、彼の体も崩れる音がした。(続く/797文字)

甲冑積立金にします。