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炉神

秋津洲の神は、時折気が触れる。

「困った時の神頼み」も過ぎれば神には毒となる。飢饉だとか、大きな災禍の後だとか。人心の願意が一つ所へ集まれば、神は己の格を超えた願いでも成就させようとしてしまう。それは文字通り「神の国」である秋津洲に、決していい結果のみを齎さなかった。

神酒の入った瓶子が背嚢の中で音を立てる。風が強くなってきた、烏帽子が飛ばされないよう紐を締め直す。脇に携えた祝詞も今一度確かめた。頂まであと少し。賀多神社は奥宮を山頂に、里宮を麓に持つ神社だ。私が今向かっているのは、奥宮だった。

――伊勢、出雲をはじめ全国八万の社で臨界の虞あり

神祇院からの報せを受けて、奥宮へ発った神官は既に七人。臨界の兆候は一向に収まる気配がなく、神官も一人として山から戻らなかった。学階を持たない、ただの宮守である私が遣わされたのは何のことはない。賀多神社にはもう神事を斎行できる者が残っていないからだ。

標高が高くなるにつれ、山から命の気配が減っていく。枯れて白骨のようになった木々の間、草履に踏まれて砕ける落ち葉の音を聞きながら進む。辺りには羽根の抜け落ちた野鳥、干からびた穴熊。そして、見慣れた白装束姿の亡骸。宮司も禰宜も頭を山頂に向け、伏して絶命していた。誰一人奥宮に辿り着くことなく、道半ばにして斃れたのだ。

私は辿り着いた奥宮の、内側から青い光を放つ御扉に手を掛け――


「それで、気付いたら奥宮の前で倒れていたと?」
山のお社に行き倒れがいた。そんな一報と共に登拝者によって社務所に担ぎ込まれた雑色姿の少女は、俺の言葉に頷く。隣にいた宮司と目を合わせ、頭に指をあててくるくると回すと巫女長の鉄拳が落ちてきた。
「令和になってそんなジェスチャーするんじゃない」
「れいわ?」
少女が不思議そうに聞き返す。
「元号くらい分かるだろ?」
「今は、光文九十九年ではないのですか」

光文。それは、大正の次に来るはずだった元号だ。【続く】

甲冑積立金にします。