柘榴

 古い屋敷の軒に、茶巾のような不思議な形をした実が揺れていた。
 手入れの行き届かない生垣の中から、ぽんと飛び出したようなその木は、しゅとした剣のように艶やかな葉を持っている。私は部屋に積み上がっていた本を整理する手を止めて、窓から手が届きそうな場所にあるその実をちょっとの間凝視した。
「ああ、柘榴の実だよ、君は見るのが初めてかね?」
 丁度、部屋に戻ってきたこの部屋の主である先輩が、小さな盆に湯呑みを二つ載せて戻ってくる。私は慌てて散らかっている畳の上に盆を置く場所を確保する。
 先輩は帝大の二年上で、今年の秋には研究の為に満州に渡ってしまう。書籍を持っていくことはそんなに叶わないので、もしよければ欲しいものを貰ってほしい。先輩のそんな気持ちを、私はありがたく頂戴した。
 先輩は考古学教室の教授の覚えめでたく、その教授宅の一室に部屋を間借りなさっているが、私は地方から出てきた一学生でしかなく、風呂付飯付とはいえ下宿代を払うことが精いっぱいの身分。学術書が戴けることはありがたかった。
「満州にお着きになったら、何処に行かれるんですか?」
「うん、そうだなぁ、大連に船が着くだろう、それから満鉄で奉天までって、君、想像できるかね、この行程を。僕はこれまでお恥ずかしながら汽車の旅でも博多から熊本までしかないんだよ」
 先輩はそう言うと、湯のみを鷲掴みにしお茶を啜った。あっち、と呟いておられるが、私はこの暑い季節にいただく熱いほうじ茶が大好きなのだ。特に、この家は自宅で茶を炒っておいでなので、うかがう時に毎度良い香りを楽しめる。
「まぁ、どのくらい居ることができるかわからんが」
 先輩の言葉がふと陰る。私は黙ってお茶を口にする。中国との戦争の話はもう身近に来ている。昭和六年に満州事変が起こり、思えばもう六年の月日が過ぎている。
「君は徴兵検査はまだかね」
 先輩の言い方はのんびりとしていた。私は小さく肩を竦める。私は一族に久しぶりに生まれた男児のため、本籍地を東京に移すなどして徴兵に掛からないように既に父母が手配をしているのだ。それを言うこともできず、
「まだ、年が足りません」
 やっとそれだけ答えた。先輩は本から顔をあげると、にこりと笑い、
「そうか、まあ君は生白いから、よくて丙種だろうな」
 色黒で背が高く、骨太い先輩の身の上が、私は急に心配になった。それとなく聞いてみると、
「うん、俺は乙種だったが」
 そこまで言った時に、部屋の入り口に気配を感じ、二人して顔を向ける。藍の濃い色の久留米絣を来たお嬢さんが、盆を手に廊下に座っていた。教授の末娘で、ミッション系の女学校に通っている子だといことは私でも知っている。
「やぁ、どうなさいましたか」
 先輩は屈託なく笑いかけるが、お嬢さんはほんの少し頬を染めて、控えめに籃胎漆器の盆を差し出す。つゆ草の絵がある小皿には、涼しげな水羊羹が載っていた。
「今年最初で、わたくし、初めて作りました。ご試食していただけます」
 頬を染めていても、言いたいことははっきりと言う娘さんらしい。その目は真っ直ぐに先輩を見つめているが、当の本人はただあっけらかんと笑った。やぁ、これは美味そうだと言い、皿を手にして、
「君も食いたまえ」
 明るく言う。私はお嬢さんの顔を見ないようにして、小皿の一枚を手にした。

 ざんざんと夕方間近の涼しい風が、開け放った窓から部屋に入ってくる。香ばしい茶の香り、お嬢さんの着物に染み込んだ微かな沈香。窓硝子をこつこつと打つ音に、お嬢さんは俯いていた顔を上げる。
「お庭の柘榴の木、私が出立前に整えて差し上げましょう」
 先輩は言うと、立ち上がり窓の外を見る。伸びた梢が窓を打つのだ。その枝に先輩が手を掛けると、お嬢さんは、でも、と声を出した。
「枝を詰めるのは可哀想です」
「いやぁ、育ちがいい木ですから、すぐに伸びますよ」
 先輩が手にした枝には茶巾のような実。あれが秋になると爆ぜて、柘榴石のような果肉を見せるのだろう。
「柘榴がやって来たのは、土耳古からだと聞いたことがあります」
 お嬢さんはそう言う。私はほおおと、皿を手にしたまま、お嬢さんの横顔を見つめる。鼻梁の通った美しい顔だ。
「おお、如何にも、何処でお聞きになりましたか」
 オリエントの研究が主である先輩は嬉しそうにそう言う。お嬢さんは一瞬、哀しそうに顔を伏せかけたが、すぐに先輩を見上げた。
「遠く、波斯のザクロス山脈から来たのだと、教えてくださったじゃないですか」
 それは余りに毅然とした言い方で、私もであったが、先輩も面食らったようだった。
「あぁ、そうでした、そうでしたね、ノアの船が辿り着いたアララトの山がある辺りから、絹の道を通って来たのですよ」
 先輩はちょっと驚いたように書籍の山から古ぼけた地球儀を引き出した。くるくると回し、そのお嬢さんがいった場所を指差した。中央亜細亜と亜剌比亜半島を繋ぐ土地、その高い峰々を少しの間想像する。風の音が、聖典(コーラン)の詠唱のように聞こえた。
「ザクロス山脈」
 私が呟けば、先輩は小さく頷いた。
「遠い道を旅して来たんだ」
「だから、切ってしまうのは可哀想です」
 先輩と私はもう何も言わず座り直した。軒に、柘榴の枝はまだ揺れている。今日のうちに、部屋は片付きそうにない。
 お嬢さんは先輩を好いているんだ、私は柘榴の実を噛んだように、甘酸っぱい思いで沈黙の中に座っているのだった。

  了

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