「結婚」第3話

 お堀を走る

 泣いた後の目元が乾いて元に戻ろうとしている最中のような、朝陽に照らされた青白く、湿った階段だった。
 上から誰かが降りてくる気配がする。それがひゅーいの足音だと私には分かる。軽く、最小の力で心地よい音が鳴るギターのような音だと思っていると、それは本当にひゅーいだった。私は思わず足を止め、その振動でこの恥ずかしい気持ちを伝えられたらと思う。そんなに甘くはないことを知っているが、上手く言えない。
「ひゅーいさん」
 彼を足音だけで聞き分けられた安堵をひゅーいの目に伝える。安堵した私が写っているひゅーいの目を私が見ると、目に写っているお互いの姿が無限に互いの黒目の奥へ続いていく。
「……もう」ひゅーいは低い声で言った。
「ごめんね、あれから、鍵なくしちゃってさ。多分開いてないだろうし、ひゅーいさんを起こしちゃうのまずいだろうし……」
「そんな嘘つくなよ」
「む、昔の彼とばったり会っちゃって、盛り上がりで一発」
「それも嘘」と言い、彼は私を部屋に入れて説教しようというような雰囲気だった。
玄関のドアを開けようとするひゅーいの背中に向かって、
「私、レズ、だったんだよね」と言うと、
「っははは」と笑うとすぐに無言になった。
私は部屋に入ると、ひゅーいの顔も見ず、逃げるようにべランダの窓の前まで行ったが鍵がしまっていた。ガラス窓を指で撫でながら、顎でコの字を書くように言ってしまった。
「ひゅーいくんは、走るの好き?」
「え?」
「走ろう」
「別にいいけど。なんか言うことないの?」
「じゃあ、着替えて! お堀の周りを走ろうよ」
「私、先に下の広場に行ってるから! ひゅーいくんは着替えてから来て」
 部屋から逃げるように出て再び階段を降りていく時、通路側に太陽が射し始めていて、踊り場は暖かった。さっきと違う階段の音が私の足首に響き、もっと噛み締めて降りなければならないと思った。
 十一階から一階まで、朝食も食べずに上り下りをすると、意識がふらついて首から下に血が巡っている感覚が全くなかった。噴水の広場のあたりで体操をして待っていると、ひゅーいは水色のナップサックを背負い、紙コップを両手に持って早歩きでやってきた。紙コップの中身は牛乳で、ナップサックからはマドレーヌを出して私に渡そうとしてきたけれど、紙コップを見るとマラソンランナーらしく、乱暴に取って給水する仕草を真似てみたくなり、小走りで近づいてマドレーヌと紙コップをひゅーいの手から奪った。
「お城はあっちよ、ついて来て! どっちがはやく一周できるか勝負よ」
「うん」
 私は走りながら牛乳を飲もうとしたが、上手くいかず、半分程マンション前の広場の敷石にこぼし、もう半分の半分は昨日からずっと着ている黄色のジャケットにこぼしてしまった。ひゅーいは足音も小さく、牛乳をこぼさないように片腕を固定したまま、後ろから私を追いかけて来る。
 私は一度止まるともう走れなくなる気がしたので、公園に入ると、走りながら緑道に転がっていた木の枝を拾って、ひゅーいの方を振り返りながら棒をふりかざすと、地面に線を引いた。ここがスタートラインで先に一周したほうが勝ち、という意味を込めた。再び振り返ってひゅーいの反応を確認してから棒を投げ捨てると、私は走り出した。
 ひゅーいが追いかけて来る音がする。でももう、倒れそう……ちゃんと謝るチャンスがなくなる。私はひゅーいとどういうルールで競争して、あとどれくらい走るのか、自分がどこを走っているのか分からなくなってきた。お堀の周りは木々が連なり、家族連れやサングラスをかけた外国人もいる。走りながら自分の身長が少しずつ低くなっていくようで、地べたに寝そべることが恋しくなり、地面がベージュ色のソファに見えてきた。バタンと倒れて、転がっている小石で膝をすりむく痛さが現実かも分からないまま、視界に黒いカーテンが現れ、幕が左右から閉まっていくように徐々に暗くなっていった。


 娘と私

 昨日の夜から何も食べていない君子は、砂利道でバランスを崩して転んだ。私が駆けつけた時には既に転んでおり、数人の人だかりができていたが、分け入って私が近くの木陰まで運んだ。
 苦しそうにべったりと汗をかいて意識を失った君子は、倒れた兵士のようだった。弓が腹に直撃して、腹をかかえて苦しんで死んでいった兵士がきみこに乗り移ったのか、君子には兜がとても似合うと思った。私は君子の額の汗を拭き、できるだけ楽な体勢にし、手の平で顔をあおいでいると、声が聞こえた。
「キラキラまぶしいよ、ひゅーいくん、何かぶってるの?かぶと?」
「何もかぶってないよ」
「昨日、急にどっか行ってごめんね」
 私は君子の顔の傍でしゃがみこんだまま、髪についた土や砂を払った。同時に、私の心の奥にずっとしまってあった、私の学生服姿の色彩が徐々に薄くなっていった。


 私は、娘と遊んでやることに疲れるどころか、励まされるように遊んでいる。小さい娘は、驚くと顎を引き、目を丸く見せる。「それは何?」と私は言ってしまうが、その言葉はいつもありきたりで、すぐにかき消され、笑う娘と目を合わせることができないまま私は遊ぶ。
 娘が生まれた時、私はこの子に自分の半分が入っているとはとても思えなかった。熱く、骨までも柔らかく、簡単にくずれてしまいそうな小さな体は、目を細めてこちらを見ては目をつむる。自分の半分が入っている赤ん坊の娘を見た私は、言葉に鎖がかけられたように海の底へ沈んでいった。君子はきっとそのことに気付いている。妻の視線は、生まれたばかりの娘よりも、表情と言葉のない私に向けられている。

 という夢を毎朝、目覚める前の布団の中で見る。これらは頭の中のノイズなのだと私は思う。ノイズによって梱包されてしまい、奥に入っているものを見つけ出せずにいるのだ。それはたまらないことだ。今日も私の顔はユーモアも感情もはぎとった、真っ白な根っこのような色をしている。毎日仕事へ行き、うすら白い自分の肌を空気にさらしていくことが、恥ずかしいとさえ思う。恥なのだ。娘が生まれたらどう可愛がればいいか分からずに怯えているということは。
 自分の中にある夢の処理を自分で終えることができなければ、私は永遠に君子と結婚ができないのだと思う。だってそうではないのか、まだ生まれてもいない娘を可愛がる自信のない焦りのしわ寄せがやってきている状況を、このまま結婚して君子に見せて構わないのか? 構うはずがない。それではまるで精神病院のようではないか。 
今、私のするべきことが自分の性格の破壊なのだとしたら、今の私はとても暗い。
 今日も眩しい歯を見せて笑う君子がいる。ベランダから注ぐ光を反射させ、私の目を細くさせる白い歯。コーンフレークの乾いた食感を補う牛乳の香りと、スプーンを持つ私の手指の冷たさと、君子が私に視線を浴びせてくれた時に湧き上がる唾液とが混ざり合う。そんな時、私は無垢な少年時代へ戻る。私を少年に戻す健気さや愛らしさを君子は持っている。これでいいのか。君子によって私は少年に戻り、そんな私が君子といてよいのか。いてくれるのか。戻るということは同時に今の仕事を捨てるということで、実質的に捨てなくても仕事は捨てられる。自分の人生の樹木の居場所を少年に置き、生活の一切を君子と交換することで仕事は捨てられる。今すぐにでも私がそう意識さえすれば捨てられる。問題は仕事より、少年化した私を彼女が受け入れられるかということである。君子が純粋になればなる程、私は少年と現在の年齢の行き来をしなくてはならない。少年化した私の補助を行う存在に君子がなった時、私はあまりにも子供じみてしまい、君子はそれを嫌に思わないだろうか。嫌だろう。そうに決まっている。しかし、君子が笑えば私は少年に戻ってしまう。
 この現状は、自前の焼却炉に放り込んだつもりが、燃えずにむしろ起爆剤になっている。火の中に放り込んだはずの消したい自分が、意志を持ったように火から目の前へ飛び出し、ひとりでに燃え続けそこに居座る。
 それはつまり、少年の心を捨てたくないという、私の主張なのである。
 これから人生を共有していく直前の私と君子において、結婚という手続きを終える前に「何か」をしなくてはならないのではないだろうか。と思うのである。さもないと、我々の重なり合う平凡な部分だけを共有していくということになりかねない。今、私は君子の隣で朝を迎えているが、これが永遠に続いていくことをお互いが了承する手続きを終えていない。つまり、今の朝も夜も全て共同の茶番に過ぎない。朝食後に君子がトイレに行った隙に一人でベランダに出て、このまま何もせずに判を押すと、空の見え方がその日から変わるだろう。朝日の香りには常に君子の寝顔と香りが共にあり、それは焼却炉の役目が終えたことを意味する。きっと、早々と時間は流れ、そしてあっという間に子供ができる。目まぐるしく、自前の焼却炉を失うことがおかしいのではと考える暇もなくなる。
 我々の朝とこれまでの私一人の朝が見え隠れしている今、手続きを終えてしまうと、永遠に私も君子も闇に隠れていくと思う。そうなってはならない。だがどうすればいいのか、私には分からない。

「ねぇ」
 ある夜の会社帰りに、道路の植え込みから声がした。私は辺りを見回すような動作をした。声のした場所から流れてくる甘く幼い空気が鼻にかかった時、私は私がひそかにずっと夢見ていたことが突然本当になったと思った。野菜の葉を黒い泥になるまで煮詰めたような苦いにおいが喉の奥から湧き上がった。
「ねぇ、そこの方。いつまでくらいつもりでいるの?」
「くらい?」
「あなたの中身のことよ。それじゃあずっとそのままね。私を拾いなさい」
 迷子の子供でも家出娘でもない堂々とした口調だった。背後から耳元に話しかけられているような声に驚きながらもう一度植え込みを見ると、それは肉体のぼやけた子供だった。私は茂みにまみれたその子供の前にしゃがみ込み、植え込みの枝を突き破って歩道に伸びていた小さな手をゆっくりと握ってみた。冷たく湿り気を帯びた感触が私の手に伝わり、それは感触として実際に存在しているようにもいないようにも思えた。
「もうちょっと真面目に握ってよ。そんなのいや」
「じゃあ、どうすれば」
「私のことひろう気あるの。ひろうってことはずっと育てていくことなのよ。その気があるならそういう人らしいことしてよ」
 子供は、茂みから離れて空中へ飛び出たそうにしているようだった。枝葉の尖った部分に頬や手首が傷つけられ、血が黒い線になって2センチ程垂れていた。私はその血を拭うと、子供の脇に手を入れ、わぁっと強引に抱き上げた。
「そう、もっとたかくして」
「こうかい?」
「ねぇ、危なくしなくてもいいから自発的にやって」
「じはつ」
「まぁいいわ、今日は。寒いから帰りましょ。で私のこと、ちゃんと育ててくれる?」
「君が私の娘になってくれるのかい?」
「だから、それはあなたが決めて」
「……」
「育てるさ。うちがあそこにあるから帰ろう」
「そう……」
「周りの人たちの視線がおかしいと思わないの」
「変じゃないよ。親子だろ」
 非日常的なものを見ながら遠のいていく周囲の人々があった。私はぬいぐるみを抱きしめたまま走り出す少年のような笑顔を押し殺し、その我慢の様子を、今できたばかりの娘は見ているような気がした。
 暖かい私の娘は、髪で隠れて横顔も見えず、一度抱きかかえると、降ろすタイミングも分からず、家に着くまでもう一度顔を見る機会はなかった。
 今、静かに実感していく私の喜びによって家庭は滅びていく気がする。両方は不可能なのだ。結論が理由に先だって立ちふさがる。恐怖に怯えながら滅びていくことを承知して家へ帰らせ、冷たく青ざめていく私の頬を眺めることが、意地悪そうなこの娘のやりたいことなのか、と考え過ぎてしまいながらも、私は自分の人生で最も華やいだ時間を送っていると感じる。これまでのあらゆる時間と労力の集約が、さっき私が何気なく行った、父となった瞬間であり、君子無しでそれを決めてしまった私は、家庭と自分の夢の両方を手に入れることはできないと実感する。そう分かっていても私は家に帰って伝えたい。
「きみこ!」
「はい?」
「僕たちに子供ができたよ」

***

 一瞬どころか、私の口から大声が出るまでずっと、この人が何を言っているのか分からなかった。なぜか知らないけどひゅーいがものすごく明るい。ひゅーいの隣に立っている小さな女の子が子供? 隠し子いたの、違う。そんなんじゃない分かってる!
「どうしたの」
「植込みに紛れて僕を待っていたんだ」
「なによそいつ!」
 私は自分が思っているより狂いやすいということを声に出してから気付いた。いつのまにか私は手に持っていた携帯電話をひゅーいに投げつけていた。それは一瞬で、気がついたらひゅーいは玄関に飛び散った電池やふたを拾っていた。
「あなただって、道路や道路のわきの植込みで寝泊りをしてみたかったんでしょ?」
「なに?」
「聞こえたはずでしょ」
「どこが子供なのよ!」

***

 と叫ぶと、君子は膝から崩れて両腕を空中で振り回し、床にたたきつけた。細い二の腕は空中を回転し、間接から悲鳴があがっていた。叩きつけられた腕の衝撃は首元や喉にも伝わったようで、君子はそこから泣き出して動かなくなった。私は靴を脱いで、君子の傍に寄ると言った。
「明日から三人で朝食にしよう」
 君子の返事がなかった代わりに「いいわ」と、背後から娘の返事が聞こえた。私には朝食の食材のにおいときみこの肌のにおいと、そしてこの娘の柔らかい髪のにおい等、二人の髪を口の両脇に含んだように、二人のにおいが浮かんだ。君子が承知していないままに私は目の前にぶらさがる幸福の眩しさに体の芯まで浸かっている心地だった。
 そうして、あいと名付けた娘のにおいと共に三人の朝がやってきた。今まで何日も長い時間を歩んでいたこの部屋に一人、娘が加わった。焼き付けようとしているのは私だけではなく君子もそのような顔をしていた、と思う。受け入れるべきかと、君子は君子が持つ自分の優しさと怒りとの間で戦っている。あいの可愛らしさが現れたことによる私の五感への影響。今まで開いていなかった目。娘を見る私の目は眼球を通り越して、目の奥の奥に、後頭部を貫通するぎりぎりのところまで焼き付ける。そこにいる娘の体を吸い込むように、私の目は娘を見るために開いている。

 あいが椅子に座って朝食を待つ時、リビングの床は歪んで見える。力を持った人間が、この床を含めた空間を歪ましている。同じ部屋にいるはずなのに、あいはいないよう。見えているもののペースも感じ方も全てが違う。この子に本当に私と同じようなカラーに映る、世界を見ているのだろうか。部屋の床はフローリングなのに、この子の足は常に地上の地面深くに突き刺さっているよう。私たちがあいに手を掴まれたら、下へ引っ張って、私たちを一気に子供に戻してしまいそうな気がする。それくらいその気になればあいにはできると思う。君子や私を子供にして、ぼんぼりの帽子を被った幼稚園児にしてしまう。私たち家族に大人と子供の境界はどこにもない。

あいちゃん

 あいを近所の小学校に入れてから二日程経った頃、私は担任教師から放課後の教室に呼ばれた。締め切られた教室には気怠さが充満し、窓から差し込む西日に担任の頬が赤黒く照らされていた。ひゅーいが連れてきた子供、あいは皺一つないぴんと張った真っ白なエナメルのような肌のまま、教師の瞳を刺すように見つめていた。担任は事務椅子に座ったまま体を傾け、首から上だけで話そうとしている。
「おたくの娘さんについてですが」
「はい」
「どのようなことを学校でなさっているかご存知ですか?」
私は、親として答えないといけないのだ。ここは戦うのではなく考えるべき時。
 道路の植込みで夫が拾ってきたとは言えないから、養子にもらったことにしようと学校に来る途中の道では考えていた。でも、いざこの子がいる傍で言うとなると、ひゅーいが連れてきたこの子は、これまでのひゅーいと私の心の中から導き出された当然の結果のように思えた。驚いたわ、ひゅーい。あなたも子供を欲しがっていたなんて。私も、今この人に言われてやっと分かった。あいは私が育てるべき子なのだって。
「すみませんでした。親として、私は見失っていました」
「はい?」
「心配しないでね、あいちゃん」と言って私はあいの頭を撫ぜた。
「……」
「子供が子供なら親も親のようですね、会話が成立しない」
「ええ」と、私は強気になり過ぎて教師のありふれた苛立ちに笑いそうになった。それに気付かれるのはよくないと思ったけれど、教師の方は唇が紐で操られたようにとめどなく歪み始めた。
「いいですか、あなたの子は授業中に何もしていませんよ。朝から終礼までじっと座ったままです。何か考えているようものならまだしも、口を開けて本当にぼーっとしているようにしか見えないのです。休み時間には一人きりで校庭裏の草むらに出たきりチャイムが鳴っても帰ってきませんし、給食は手で食べ物をバラバラにするだけ……」
「先生ちがうよ」
「私は今、あなたのお母さんに話をしているんです」
「私はね、島なのよ。先生、そういったら怒る? 今私はここにいるけどね、そうじゃないの。この私はかりもの、新聞のようなもの。今の私は今日の私を報告している私の新聞なの。水に濡れたらべしゃべしゃになってとけてしまうようなものなの」
「一番になりなさいって先生はよく言ったでしょう。なんでもいいからって。なんでもいいなら、私、誰よりも一人ぼっちになれる自信があった。だからそうなろうとしただけだよ先生、それはいけなかった? でもね、一番になるのはそれでもむずかしかったのよ。どうしてだか分かる?」
 私は自分のからだが小さくなって、あいの言っている世界、私ではなくあいに見えている世界に吸い込まれていく気持ちになった。教師も同様に、椅子に座っていたはずなのに、今はもう綿菓子のように軽く、椅子の上にたまたま置かれた人間という名前の容器に見える。
「私がお父さんに拾われたからよ。ひゅーいっていうお父さんが一番のひとりぼっちだと思ったから私は拾われたの。先生、先生は女の人でしょう。私も女だから男の人の気持ちの本当のところは分からないもの」
「こんなことを言う私を、先生は心配して、きっと私がすごくへんな子だと思うでしょうけど、でも、これにはさわやかさもあるのよ。お父さんはね、何とも繋がって生きていないの。思ったことを口に……」
「あいさん!」
 教師はあんたの家庭の問題にまで首をつっこみたくないという結論にねじ込むだけで相当なエネルギーを費やしていた。入学の手続きをしに行った時は、あいが大人しく黙って座っていたのを見て「あら、かわいい子」って、気味悪い声で食付いていたのに、今は理解を越えた不快さのせいで怒りを吐き出す蛇口も故障している。
 私は、先生に臆することなく思っていることを話してくれたあいには、自前の翼が生えていると感じた。それは私に守れるかどうか分からない不安の象徴であり、ひゅーいの孤独を私が解放して、二人で協力すれば、この翼を守れるのではないかと思った。

 教室を出て、二人で手をつないで校庭を歩いている時、あいの冷たかった手が温かくなったような気がした。
「あのね、ひゅーいっていうお父さん、いい人に見えたから私、拾われたの」
「いい人?」
「いやな人なら私に気づきもしないよ。あなたの名前、もう一度聞かせて」
「きみこっていうの」
「よろしく、きみこママ」
「こちらこそよろしく、あい」
「私、あなたに母親を感じてもらいたくて来たの」
 その瞬間私は、目からビー玉のような涙が校庭に落ちていった。転んではいないのに、地面にぶつかったような痛み。あいが言った言葉は血になって体中を流れ、その目でもう一度あいを見ると、あいの全身を包み込むように抱きしめた。
「大丈夫よ、きみこママ、きっとできるよ」
「あいちゃん、ありがと」

「おーい」と、歩いてマンション近くの広場まで来ると声が聞こえた。
「何かきこえた?」
「ママ、あれお父さんの声じゃない?」
と、あいが言うので、私は私たちが住んでいるマンションを見た。すると、横長の四角い穴のようなベランダから大きく手を振る人影が見えた。あれは柿谷ひゅーいだ。私たちを呼ぶ声は私とあいだけではなく、噴水の広場や街路樹やすぐ傍に建つ全く同じデザインのB棟にも響いていた。
 普段はゴーッという低い風の音しかしない鉄骨とコンクリートのマンションから人の声が聞こえるのはとても不思議で、ひゅーいがこの巨大な建物の印象を塗り替えたような気がした。この広場と私たちの家とが、彼の声で繋がっている。空間が一気に広くなって家のような場所が外にもあるような心地がした。
「お父さん、嬉しそう」と、あいが言った。なんなのだろうこの状況は。ひゅーいも、この嫌いな広場も、まともになっていく。私もとうとうまともになるの……その心地のまま、私は同じ速度で歩けず、あいから手を離してしまった。急激に吐き気のような不快感で埋め尽くされ、完璧すぎる幸福な感覚を、今までの私では適応不能と判断し、拒否している。頭が鉛になり、ほんの少し前か後ろに傾いただけでばたりと倒れそうなほど、秒ごとに頭が重くなっていく。満たされていく過程の中心で、私にはまだ諦めきれていないものがある。
「あいちゃん、ちょっと……お母さん、つかれちゃった」
「大丈夫?」
「パパに降りてきてもらうから、一人で一階のエレベーターの前まで行ってくれる?」
「うん。ママ……」
「ごめんね、あい」
 私はおーいと言ったひゅーいのいるベランダを強く見て、彼がまだいる様子を確認し、「私は街へ行く。この子はエレベーターの下に行くから迎えに行ってくれ」と、腕と指で合図をした。彼はすぐにそれを理解したようで、両手で大きな丸のサインをすると、すぐにベランダからいなくなった。理解の早い人だと思った。
 あいが一人でふらふらと広場からエレベーターまで歩いていく様子を見ると、私は何もかも捨てて逃げたくなった。タクシーに乗って街へ行って……。
 大きな道路に近いマンションに住んでいた利点はこれか。タクシーを見つけたらいつでも逃げられる。バックミラーから顔が見られないように左側の席に座ったが、適当に言った目的地に着いても私が何度も鼻をすすって泣いているので運転手が、
「適当に流しますか?」と聞いてくれた。
「はい」とだけ言って私は、幻想という形で来てくれたあいという子供の予行練習を憎んだ。また逃げてしまった。あんなに暗かったのに私よりも先に世界に心を開き始めたひゅーい。怖い。私にとって彼はずっと暗いほうがよかったのか。そんな訳ない。
「運転手さん」
「なんでしょうか?」
「あなたは優しいお人ですか?」
「そ、そうですね。そうなりたいとは思いますけど」
「私は今、大人になるのが怖いので、運転手さんに何かしてあげたいと思っています。私、できることなら何でもしますよ」
運転手はハンドルを握ったまま黙っていた。
「私には好きな人やものがたくさんあるんです。それを、たった一人の夫に毎日毎日、言うのが続いていくのって、とても怖いと思うんです」
「毎日ですか」と、運転手は言った。毎日会えるだけ幸せなのになんてことを。と言いたげな感じに私は受け取ってしまい、この人に言うべきではないと思い、
「ごめんなさい、この話、終わりにしますね」と言うと、会話は終わり、運転手は黙った。それからタクシーが街のにぎやかな交差点の中をゆっくりと通過すると、窓から街の様子が見えた。ガラス越しにすぐ目の前でさまざまな人が歩いたり、信号待ちをしたり、建物に出たり入ったり、自転車がタクシーの脇へ割り込んできたりしていた。その人込みの中に私が雑貨屋で見た、ニット帽を被った男によく似た人がいた。黒い大きなリュックを背負って長い足にブルーのジーンズが似合っている。私よりも背が高くて顎髭が整っていて、きっと私と一緒に歩いたら絵になる。その人をじっと見ていると、丁度タクシーが信号待ちになった。ニット帽の人は一人で、彼も横断歩道にさしかかり、信号待ちになった。私は迷った。ドアを開けてあの人と仲良くなってしまうべきか。もしそうなった場合、私は幸せだろうか。あのひゅーいとあいがどうなるかを考える前に、私はあの男と仲良くなって幸せか……幸せ、ではないと思った。それはもう、私にとって古びた遊びだった。だって、ニット帽の彼は年下、それに年だけじゃない。私のこの逃避活動そのものが終わったのだ。終わり、というずっと握りしめていたカードを使う時がきた。ひゅーいにさよならしたいと思っていた感情が、今あのニットの男を見て終わった。あいちゃんにはお礼を言ったら、本当の娘とひゅーいと一緒に、一生懸命生きた時に吸う街の空気や朝の光を待ち遠しく思った。それは新しい私の朝。同じ部屋で眠ったなら三人分の柔らかい寝息で満たされた部屋で私は目覚める。三人で朝ご飯を食べて、ひゅーいを見送って、洗濯物を干して、幼稚園から帰ってきた子供に勉強を教えて、よくできたらお菓子をあげたり、オセロをしたりして遊ぶ。近くのお城の公園に行って草花を集めたりもしたい。私は、自分の子供と遊びたい。ひゅーい、あなたはそれを支えて。それができるように、ちょっと待ってね、今戻るから。
 タクシーをUターンさせ、マンションの広場で降り、エレベーターで上がって家に戻ると中にはひゅーいしかいなかった。
「いないね」と私が言うと、ひゅーいは私の目を見て言った。
「僕たちでこれから作っていこう」

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