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この世界は僕には眩しすぎる


最近好きな言葉

品格、感動、刺激、もどかしさ

苦手なもの

ストレス、




最近どうでも良い他人に時間を使いすぎて人と接する事に価値を見出せなくなっている。

”人間酔い”とでも形容しよう






最近感情のボラティリティーが高すぎて

他人の一挙手一投足に感情を左右されている

己の価値観の中で相手を評価する存在なんて無価値なはずなのに。







そしてその評価されている部分は本来の自分ではない部分で

「ティッシュを取るのが上手だと褒められている感覚」に近い

自分自身が客観的な自分の強みを理解できていないだけなのかもしれない

もしくは自分自身のPRが足りないだけなのかもしれない。

自己評価が低いのではなく自分自身の評価してほしい部分が評価されないもどかしさを素直に認められないのだろう。

これまでは求めていた”刺激”も人を介することで”ストレス”へと降格し必要のないものへと変わってしまっている。




不安定で歪な精神状態だと

目標もないまま直向きに、愚直に努力を辞めない人を見ると眩しく感じてしまう。

光のように刹那的で、瞬間的で、それでいて綺麗で

実態なんかあるはずのないその有機物の集合体に淡い期待を抱いてしまう。

心が動きそうになってしまう。





そんな自分の感情に気付きながらも弱い部分をひたすら隠し、

ティッシュから吐き出された一枚の紙のように

人生のほんの数秒しか意味を見出せないような

空虚な自分の人生に反吐が出そうになる。

そんな自分が大嫌いだ。








人間が永遠に議論をし続けている”幸せの価値”も

今の自分にとっては遺伝子に刷り込まれた本能脳的な生存欲求を

脳のシナプスを通じて美化されている意味のないものに感じてしまう。









自分の哲学で”美しいもの”を大切にしていたが、

(形而下的な美しさも大切にしているが形而上的な美しさを”美しいもの”と定義している。 例:綺麗な人が人間臭く頑張っている姿が美しい。など)

それは本質的に自分の中にはない究極のないものねだりだったりするのかな

言語化するにはもう少し時間がかかりそうだ。









歪で不安定な自分にとってはこの世界は眩しすぎてまるで直視出来ない。

自分の出来ていない部分を直面させられているような感覚で。

だから”美しさ”の中にも歪さを求めてるのかもしれない

歪に囲まれていた方が気が楽だ。

恋愛とかも捻くれて向き合っていくのだろうと思う。

そんな将来を想像すると
またデカダンというかニヒルというか空虚な気分に苛まれる。

また、こう文章を書いているとそんなデカダンな自分の人生にすら誇りを抱いている自分もいることを再認識させられる。

そうやってまた周りを期待させて自己が消えていくのだろう。

浜辺で波に濡れた人の手によって積み重なる砂のように、

堆積したその実態は本来重なるはずのない単なる塵の集合体なはずなのに。


















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