見出し画像

#080 役名と自分の狭間で

あなたは自分をいくつ持ってますか
肩書きでも 名前でも おそらく多くの人がいくつかの顔もしくは人格を持ち合わせている 例えばSNSでの自分は本名ではないし 少なからずそこに立つ自分は自分であって自分じゃない つまり人は自分の人生というそれぞれの舞台の上でその舞台劇を創造していて その中でさまざまな役を演じることになっている その時の役が常に等身大で一才飾りのない自分であるということは ほぼ不可能だと思う

わたしは今現在 自称文藝クリエイターとしてnoteやPodcastで創作や発信をしているが そのほかにも本名を使用して社会の一部に正式に存在し 大学に通っている自分やSNSのメインアカウントとしてインスタグラムで日常を綴る自分、さらには趣味でゲームを楽しむ自分などもいてそのどれもがそれぞれの名前と共に個性を持つ これらはすべてわたしであってわたし以外の個々でもある もっといえば 娘であり 妻であり 母親であり 元クルーであり台湾在住な自分を取り巻く環境からも少しづつ違う一面があったりする 何かしらの役を負って日々を過ごしている自分がどれだけ自分を確立しているかを考えてみると  自分と役の境界線がとても曖昧なことがわかった 

求められる存在の部分を大きくしたいから 母であることを求められるなら母でいる時間を長く保ち 母親というイメージを周りにも印象付けようとする それはSNSの発信内容であったり 友人との会話の中だったり 必要以上に開示しない ということも立派な演出である 

自分が周りからどんなイメージを持たれていて どんな自分を求められているかを考えながら生きればきっと環境は整いやすい また自分をどんなふうに見せたいかをある程度確定させられる人も真っ直ぐに生きやすいし 成果は得られやすいと思う 演じる役のキャラクターは確立されている状態の方が演じやすい

わたし自身はいくつかの役を持つことでそれぞれを休ませてあげたり補い合ったりできている ただし周りから求められる自分と自分がこうでありたいという自分が確立しきれていないという点において わたしは未熟だ 
なりたい自分とやりたいことは複数あって でもその一つひとつが今はバラバラに散らばっているだけ 一つの自分である必要はもちろんないとわかっている ただ自分を解らないでいることが怖いだけなのだ 求められる自分は一体どんなだろう 周りの声を聞いているつもりで聞こえていないのかもしれない わたしの知らないわたしを知っていて それに期待をしてくれている人たちはどこにいるんだろうか

今わたしは誰を演じているのだろう

役名を取り払われた後に残る自分は 何を持っているのか むしろ何を持っていたい?

結局わたしの舞台劇は未熟なままなんだ



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?