#037 まだ恐れていること
文章を書いている中でまだ自分が守りに入っているなと思うことがある
言葉の意味を読み手に委ねようと思うとどうしても抽象的になってしまう
書き手の真意を理解したいという読み手にとってはそれはストレスになる
結局この人はなんのことを言っていたのか 何が言いたかったのかと
しかし身の回りのことをテーマとしている書き手としては具体的に書くことはリスクでもあるから難しい
抽象的でありながら美しいと言われる作品というのは確かに存在する 何がどうっていうのを理解できなくても わからないものに対して芸術的美しさをおぼえる その絶妙なところをついている作品
例えば名画 わたしは絵画に対する知識はほとんど持たないが美術展に行くのは好きだ 描かれた絵の背景や作者の思い 画法についてもほとんど知らないし理解できないことが多い それでもその絵の前に立って顔を付き合わせてみるとその美しさを感じ取ることができる
自分ができないことをしている芸術家に対する尊敬の気持ちからそう感じるところもあると思う
アーティストでいうと昔から宇多田ヒカルが好きなのだが 先日作業しながら聞いていてふと歌詞の中に
日清カップヌードル というワードが登場した
とある音楽番組で彼女の楽曲が取り上げられた時にも 彼女の歌詞は攻めたものも多い 普通は時代を感じさせるものを歌詞に入れてしまうと数年後にその曲が古臭くなってしまう可能性を恐れて使うのをためらうのだそう
しかし彼女の書く詞の中には「今」を表す言葉を躊躇なく使われていたりする
例えばネトフリ、ウーバーイーツなど
これを受けて自分がいかに臆病なのかを痛感した
わたしはまだ自分になり切れていないのだと
そして何より 書き出すことで向き合わなければならないことについて まだ書くのを躊躇う自分がいるのだ
具体的な自己開示にはやはりリスクがある
最近は自分が発する言葉で誰かや自分を傷つけてしまうことを恐れて 書くことをためらう時間が増えた
他人が発した言葉に少し傷ついたりしたこともあって この状態で発する言葉がトゲを持ってしまわないか心配になったりするのだ
傷ついたのは他人の言葉ではなく それを解釈する自分の感情に問題が起きていたからで 決して相手に問題があったと言いたいわけではない 言葉は受け取る時の自分のコンディションやタイミングによって解釈が変わってしまうことがある そのことを踏まえた上で考えると やはり発信者として自分が発する言葉に偽りがあってはならないと気づいた
言葉というのは絶対的な意味を持ちながらも不安定なもの だからこそありのままの自分の言葉でなければ意味がないのだということを改めて感じたのだ
今の自分が何を思うか どう感じているのかを 誤解を恐れずに表現すること
いつの日かそれが色褪せていくとしても 自分がそこに何かを感じ取ったというのは紛れもない事実だ
ありのままの自分でいることを怖がらなくていい 難しい言葉も気の利いた表現でなくてもいい そのままの自分の言葉で「今の景色」を切り取っていこう
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見出し写真撮影地:鳴門スカイライン四方見展望台(徳島県)
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