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宝塚歌劇団星組 ロックオペラ モーツァルトが素晴らしいのにしんどい

(キャスト・音楽は)素晴らしいのに
(演出・歌詞・キャラクター改変・言葉のセンスがダサくて)しんどい。
という話なので、石田昌也先生の演出大好き!って方は読まないでくださいね。そうでない方も、よい気分になるような記事ではありませんのでご注意ください。私と同じく、モヤモヤしてしまった人だけ読んでね。
予習なしで一回観るだけなら「すごかった!楽しかった!」という気持ちで帰れる作品です。フランス版を見たとか、二回目以降であるとかになってくると「ん?」と気付いてしまう感じ。ことちゃんの歌とひっとんのダンス、組子から中心に向かうエネルギーで演出のダメなところを全て吹き飛ばしてくれる。星組さんのパフォーマンスは本当に素晴らしかったです。本当に、彼女たちのパワーがなかったらどうなっていたことか。それだけのことができる星組さんなのに、だからこそ、ベストじゃなかった脚本・演出が憎い……………。

※観劇にあたって、予習としてフランス版をYouTubeで見ました。英語とフランス語を調べながらそれなりに時間をかけて見たので、細かいニュアンスはさておき、大筋は理解できているはずです。ネルケ版は見ていません。
※梅田と池袋で1回ずつ観ました。

憎むことは苦しいって玉姫(龍の宮物語)も言ってた…(遠い目)この恨み辛みを書くことも苦しいので、言葉足らずの部分もあるかとは思いますが箇条書きでまとめます。思い出したら足していく方式。

歌詞がダサい

・「僕がもし女なら こじらせ女子だ」
  原作から歌詞改変しすぎ。しかも石田先生、「こじらせ女子」の意味間違えてますよね。文字面通りに受け取ってる?ヴォルフガングがもし女性だったとしてもこじらせ女子ではないでしょ。原作では「Le Trublion」(トラブルメーカー)というタイトルで、歌詞の内容も「僕は好きなように生きる、誰に迷惑がかかろうと誰にも止められない」というもの。「こじらせ女子」という日本語を当てるのはおかしい。単純に「人とは違う」=「こじらせ」という意味で使っているのだとしたら、「こじらせ男子」でいいはず。わざわざ「僕がもし女なら」と前置きしてまで「こじらせ女子」という言葉を用いているのに悪意を感じるし、悪意がなく用いているのならあまりにもミソジニー。
・「朝から私を抱いてもいいのよ」
  原作から歌詞改変しすぎ。アロイジアは女の武器を前面に出してヴォルフガングを誘惑するキャラクターではありません。原作の「Bim bam boum」では「armure」(鎧)、「masque de fer」(鉄の仮面)などの硬質な単語を多く用いていて、そこからアロイジアのもがく姿がちらりと見えるような歌詞なんですよね。
それと、宝塚版の歌詞は「私は半分人間」だけで終わっててもう半分はなんなの?って感じですね。フランス版ではしっかり「半分が人間、半分が月」と言ってます。bim bam〜はフランス語で鼓動の音を表すオノマトペで、つかみどころがなく浮世離れしている無機質な彼女が心臓の鼓動を歌うところに面白みがあると思うのですが。

キャラクター改変がダサい

・アロイジア、コンスタンツェ、セシリア(姉妹の母)をクリーニングしすぎ。宝塚で上演するにあたって下品な表現をやめたかったのかな…?(代わりにもっとアウトな表現が増えてるのですが…)
・アロイジアはつかみどころがなくて浮世離れしてて手の届かないところにいるように感じさせるからこそ遊び馴れてるヴォルフガングが惹かれるんでしょ…………なーにが朝から私を抱いてもいいのよじゃ…………そういうお手軽な女とはヴォルフガングは散々遊んできたんだよ…………
・サリエリ浅っっっっ
・サリエリってモーツァルトの作る音楽と彼の才能を誰よりも愛していたからこそ、その才能が自分には与えられなかったことに苦悩するわけで。羨ましい〜殺したい〜憎い〜キーッ!みたいなキャラクターになっていてびっくりした。あれ誰エリ………?
・「殺したいくらい憎い、羨ましい」が宝塚版だと「殺したい」になっちゃってるな!清々しいね!
・そしてモーツァルトが死ぬ段になると急に素直になるサリエリ。誰か代わりに殺してきて気が済んだのかな????
・コンスタンツェ「散々私たちにひどいことをしておいて!」→サリエリのやったことがショボ(く見え)すぎてピンとこない。サリエリ全然怖くない。
・モーツァルトも子供っぽいっていうより多動症にしか見えない。自分の心のままに生きるみたいなこと言ってたけどめっちゃ両親の言うこと聞くしな。ていうかこれは「なんでモーツァルトが両親の言うことをちゃんと聞くのか」の描写がないからだよそもそも!!!モーツァルトが育った家庭に溢れていた慈愛が描かれないままザルツブルクを出るからだよ
・そこがちゃんと描かれていればコンスタンツェが育ったヴェーバー家の荒み具合との対比が見え………いや見えないわ………ヴェーバー家の荒み具合、アロイジア・コンス・セシリアがクリーニングされてるせいでそんなに伝わってこないもんな………家族みんなで協力してがんばろ☆みたいになってるもんな………
・コンスタンツェの両親はレミゼの宿屋夫妻みたいな下衆な2人、アロイジアもしっかりその気質を受け継いで、男を利用してのし上がることしか考えてない。そんな荒んだ家に育ったからこそ音楽を通じて心と心を通わせることができたヴォルフガングにコンスタンツェは惹かれるんでしょ?
・コンスタンツェが家でピアノを弾き鳴らすのも、雑音に囲まれた家庭でせめて自分の居場所を確保したかったからでしょ。宝塚版、唐突にジャンジャン弾きはじめるのが本当に謎。変な子になっちゃってる。

演出がダサい


・「僕ならここにいますよ!」布バサーッ ←ダサい。なんでそこにいるの。そこで全部お話を聞いてたのかな?
・狂言回し全部いらないでしょ。なんで済んだ場面のことをいちいち解説しに現れるんだ………???言われなくてもわかるよ………???

言葉のセンスがダサい

・出ました石田先生の最近覚えた現代語ご披露コーナー。これカンパニーでも見たー!今回は「こじらせ女子」「就活」「シングルマザー」ですドドン!ちなみに「こじらせ女子」が流行語ノミネートされたのは2013年です懐かしーい!
・「バカー!」ってコンスタンツェとセシリアに言わせすぎ。他に語彙ないのか。小学生男児並みにバカバカ言わされる2人がかわいそう。
・①鎮魂のミサのための曲→②鎮魂歌→③レクイエム の言い換え。いや、最初からレクイエムでも分かるんですけど…。
・①就職活動のため→②就活ってこと!?→③パトロン探し の言い換え。いや、最初からパトロン探しでも以下略
・①上げて落とす→②二階に上げておいて、梯子を外すってことね!  この言い換え、必要?レクイエム、パトロンもそうだけど、不要な言い換えが多いせいで会話に謎の停滞感がある。


全体的に観客のことを考えていないのか、観客を馬鹿だと思っているのか、言葉のセンスが世間から乖離していて痛々しい。石田先生じゃなくて、演出助手の生田先生が書いてくれていたら…と何度思ったことか。これ誰かダメ出し出来なかったんですか?せっかくの大好きなトップコンビのプレお披露目、せっかくのフレンチロック、せっかくの柿落としをセンスひとつでここまで台無しにできる石田先生、一生恨む。もう「先生」って付けるのすら本当は嫌。だからみんな「ダーイシ」って呼ぶのね。石田先生演出のものは金輪際観たくないけど、ヅカオタは贔屓を人質にとられているのでつらい。

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