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世の中結局お金

「世の中結局お金だよ」

先日お会いした経済産業省のある方がそう言っていた。

1年間フィンランドに留学して、経済産業省に入り、3年目にして70億のお金を動かしている彼の言葉には重みがあった。

「そんなことない」と反論したい自分がいつつも、そうだよなと思う自分がいた。最近そう思うことがしばしばあるから。


大学の友人とやっているまちづくり活動。
毎回イベントを開催するにあたって100万円以上が必要になる。
でも自分たちだけでは100万円を生み出すことができない。だから、助成金、企業協賛、クラウドファンディングで資金を集める。

たくさんの人が「その活動素晴らしいね」と言ってくれる。でもその中でクラウドファンディングや協賛をしてくれる人はほんの一握り。

私の話し方が未熟なのか、相手の望んでいるものを把握していない私に原因があるのか。

でも、心の中では思ってしまう。
お金を持つものがなぜ持たないものにGiveしないんだろう。
ガーナで学んだ。村の中では持っている人が持っているものをシェアする。
岡山のまちでも、まちのために持っている人が持っているものをシェアする。学生は実行力や企画力を。企業はお金を、行政は場所を、市民はスキルを。
こんなこと絶対に言ってはいけないが、数千円、数万円なんて企業にとってははした金なのに、そのお金を私たちに投資してくれるだけで、絶対にそれ以上の価値に変えられる自信があるのに。

でもこんなことを思ってしまう私は傲慢なのだろうか。でも、決して私利私欲のためにこの活動をしているわけではない。みんなのまちが、誰もが住みやすい多様性あふれるまちになって、1人1人の幸福度が上がればいいなという想いで、この活動をしている。
そんな想いすら傲慢なのだろうか。想いだけあってもがむしゃらで、未熟な学生がこんなことやってもお金がないで諦めるしかないのだろうか。


いくらいいことをやっていてもお金がなくて実現できない。活動を続けられない。

そんな話をNPO関係者から聞いていたからこそ、自分もそのうちの1人になることが何より悔しく、何より情けない。

それは自分への悔しさと社会への悔しさ。


同じ学部のベトナムから来た留学生。
将来はベトナムと日本を繋ぐようなビジネスがしたいと、その彼の想いは私の想いと重なる部分が非常に多く、こんなに共感する人に会えたのは初めてで、彼と出会えたことは本当に奇跡で、これから一緒に日本やベトナムをはじめ、社会にイノベーションを起こしていきたいと心から思う。

そんな彼が今一番欲しいものは奨学金。
彼は大学の授業料や生活費を稼ぐために、多くの時間をアルバイトに充てている。
「奨学金をもらえれば、もっと自分のやりたいことに時間を使える。」
素晴らしい想いやパッションを持ってる彼だからこそ、お金がその障壁になっているのが何より悔しい。お金によって将来のアジアを変える若者の貴重な時間や機会が失われている。

悔しい。こうやって世の中すべてお金だと、お金さえあればと思ってしまう自分や状況が何より悔しい。

社会起業家やソーシャルビジネスに取り組む先人がぶつかっているであろう壁に私も今ぶつかり、非常に非常に悔しい。

だからこそ、自分がお金を生み出せる人間に絶対なりたい。
ここでお金さえあればと嘆いていても何も始まらない、解決しない。

お金が理由で価値ある若者の夢や活動が失われるのは絶対にあってはならない。そんなのを黙って見て、諦めるわけにはいかない。

お金が全てではないが、今の社会で物事が行き着く先はお金だ。

私の家は決して裕福ではなく、むしろお金はなくて、
でも、お金がないことで不自由をしたことはない。やりたいと思ったことは自分でチャンスをつかみ、ここまで来た。お金がなくても、恵まれた環境で生まれ育ったからこそ今の自分がいる。

でも、社会に何か大きなインパクトを与えようと思った時、それが個人レベルのものではない時、私はお金という壁にぶち当たった。

社会はそんなに甘くない。社会にいい(と思っている)ことをしている人にお金が回るほどこの社会は甘くない。

でも多分本質は、自分のやっていることを価値を周囲に伝え、それによって人を動かすことができない自分が何より悔しい。
協賛の金額ではなく、私は彼らの心を動かすことができていない。

人は口では何とでも言える。でもその感情を行動に変えることはほどんどない。そこにはとてつもなく強烈なインパクトが必要。

私は、人を変えることはできないと思っている。でも人を動かすことはできると思っている。

お金を生み出し、人を動かせる人になりたい。

「お金さえあれば」と、大人を恨み、悔しいと思うこの感情を絶対に忘れたくない。

この悔しさは絶対に私の燃料になるから。


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