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清田昌弘「戦前の受験雑誌にみる出版事情」を読む。

 清田昌弘「戦前の受験雑誌にみる出版事情――その広告媒体を利用した鈴木一平の戦略」は、『日本出版史料 制度・実態・人 2』(日本出版学会出版教育研究所編集、日本エディタースクール出版部、1996年8月)に掲載されている。

 大修館書店創業者として知られる鈴木一平だが、この文章は鈴木の出版指針がどのようなものだったかを教えてくれる。

 大修館書店は今や教科書会社でもあるが、創業時大正七年は学制も整い状学校への進学者が増えた時期でもあり、受験参考書を出版することで事業を拡大していった。『中学世界』の博文館が、年に数回『受験界』を発行したり、懸賞問題に力を入れた『考え方』などの受験雑誌も出始めていた頃だろいう。鈴木も、こうした受験雑誌に広告を掲載するようになった。
 受験雑誌の広告で得たのは、読者だけではなかった。

 ところが受験雑誌の広告に注目したのは学生ばかりではなかった。日頃は東京の版元とまったく接触のない地方在住の教師たちにとっても、版元の出版傾向と格付けを知る上での格好な情報源となったのである。京都府立二中教諭諏訪徳太郎の場合もそうだった。諏訪が苦心して書き上げた原稿の出版を何社下に打診したところ、真っ先に反応を示したのが鈴木であったという。諏訪の『受験準備最も要領を得たる外国地理』が出版にこぎつけたのは大正十二年二月のことである。発行後わずかの機関に〈忽九版〉(「中学世界」大12・7の広告)を数えるに至った。

清田「戦前の受験雑誌にみる出版事情」

 この、諏訪徳太郎の『受験準備最も要領を得たる外国地理』は、「大修館のドル箱」(清田)となった。〈最も要領を得たる〉地歴叢書として続々シリーズを刊行し、経営を支えたのである。受験雑誌の広告を出したことで、ヒット作まで引き寄せたのである。

 このシリーズのヒットによって、『大漢和辞典』の出版が可能となった。受験参考書を大きな収入源としていた一方で、鈴木は辞書の出版もまた重視していた。

 かねてから鈴木は辞典の出版に多大な関心をいだき、辞典の出せる版元になりたいという夢があった。それは修学堂での修業時代から、主人辻本の出身先の大倉書店との取引を通じて、落合直文『ことばの泉』、登張信一郎『独和大辞典』、織田得能『佛教大辞典』といった安定した売れ行きをみせる辞典こそ財産であり、学問の大きな助け、世の為になる本という信念を深くした。「辞書は地所なり」という鈴木の語録は、小銭を握ると本業を軽んじて土地に手を出したがる同業者を軽蔑し自己の出版理念を披歴した言葉である。とりわけ大型一冊本の漢和を従来辞典を手がけたことのない著者に作ってもらいたいと思うようになった。

清田「戦前の受験雑誌にみる出版事情」

 こういうわけで、当時東京高等師範で教鞭をとっていた諸橋に声をかけたという。
 「辞書は地所なり」とはなるほどよく言ったものである。元手が無ければ出版できないが、出版すれば財産として安定した売れ行きで出版社を支えてくれる。しかも、しっかりしたものを作れば、出版社に対する信頼も相当に高まるというものである。
 鈴木は諸橋に手付金として2千円を渡したらしく、〈最も要領を得たる〉シリーズの売れ行きが相当のものであったことが分かる。


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