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福岡隆『日本速記事始』読書メモ①「日本文字始而造候居士」

 速記について知るべく、福岡隆『日本速記事始―田鎖綱紀の生涯』(岩波新書1978年8月)を読む。

 この本は、日本速記の始祖と言われる田鎖綱紀の伝記である。著者の福岡隆は、新聞雑誌記者でもあるが、それよりも松本清張専属の速記者として有名な人物である。
 田鎖綱紀はアメリカのグラハム式という速記法を参考にして日本語の速記法を創案し、「日本傍聴記録法」と名付けて明治十五年九月十六日付『時事新報』で発表している。考案までには相当の苦心があったとのことだ。
 同年、田鎖によって「日本傍聴筆記法講習会」が開催される。速記法の考案の誉は田鎖にあるが、実用化を果たしたのは、この講習を半年間の受講した若林玵蔵とされる。若林は、矢野文雄『経国美談後編』の口述速記や、三遊亭円朝『怪談牡丹燈籠』の速記を行ったことでも知られる。

 さて、速記法考案者の田鎖綱紀、死ぬ前に自分の戒名を決めていたという。それが、「日本文字始而造候居士(にほんもんじはじめてつくりそろこじ)だ。正式な戒名は田鎖の死後あらためて付けられたが、この自作の戒名は雑司ヶ谷墓地にある彼の念碑に記されているという。

 速記が音を記録するための補助的な記号であれば、どうしてその考案者が「日本文字」を初めて作った者を自称するのだろうかと不思議にも思うが、本書では次のように述べられている。

 日本文字を初めて作ったという自負は、後期の生涯を一貫していた。それは明治二十六年 (1893年)夏、から一層強固なものとなった。 フルベッキ博士は十八ヵ国語に通じた学者であるが、日本速記文字の起因から、全般にわたる方法を詳細に聞くと、「ミスター・タクサリ。こ れは素晴らしい文字です。これまで日本人が、いくら東洋文明の率先者は我なりと自負しても、元来日本には純然たる日本の文字というものはなかったではありませんか。平かなは弘法大師が漢字の草書体を変じて作ったものだし、片かなは吉備真備が漢字の一部分を取って作ったものでしょう。これ以外に純然たる日本の国字というべきものがなかったらざる者もまた日本人にして日本人にあらざるなりと言わねばなりません」と熱っぽく言った。

福岡隆『日本速記事始』

 自分が日本文字を作ったのだとは、とんだ手前味噌という感じもするが、もし、国民統合の象徴として文字やことばが「日本固有」であることにアイデンティティを求めるならば、田鎖の主張は気持ちよいほどにそれを貫いている。

 すくなくとも、録音技術がない時代に、速記は日本の近代化を支えた重要なツールであることには間違いない。明治二十三年帝国議会の開設にあたって、議事録作成のために速記が採用された。国会での採用が速記技術を急速に推し進める事になったと言われるが、一方で速記が実用に耐える所に来ていたからこそ、帝国議会で速記録の作成が可能となったともいえる。
 言文一致もまた、話し言葉の音を文字に落とし込む速記によって推し進められた。近代日本語を作り上げる礎ともなった速記技術の創案を担ったと思えば、田鎖の自負ももっともなことに思える。


(その他参考文献)
葦名ふみ「「国会会議録」前史―帝国議会 議事録・委員会の会議録・速記録・決議録の成立と展開―」『レファレンス』平成25 年1 月号)
 

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