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百人一首で伸ばす読解力講座第5回:「おくやまに」(猿丸大夫)

今回は、こうして百人一首にも選ばれ、三十六歌仙の一人にも選ばれたにもかかわらず、その伝記がほぼ不明で、残っている和歌も少ないという「謎の歌人」猿丸大夫の歌です。(猿丸大夫の歌ではないという説もあります。)

奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の声聞く時ぞ秋は悲しき

【現代語訳】山奥に紅葉を踏み分けながら鳴いている鹿の声を聞くときに、一段と秋が悲しく感じられることであるよ。

奥山は山奥のことで、そこには紅葉が散り敷かれているのでしょう。「踏み」があるのでそうとわかります。そして鹿の鳴き声がする。この季節に鳴く鹿はほとんどの場合オス鹿で、妻となるべきメス鹿を慕って鳴くのだそうです。作者にはきっとその鳴き声が、切なく聞こえているのでしょうね。晩秋の奥山の寂しい雰囲気、紅葉が既に散ってしまっている様子、恋心を訴えるような鹿の鳴き声。ああ、秋の悲しさ、ここに極まれりといったところでしょうか。

さて、この歌で読解力が試されるのは、「踏み分け」の主語です。誰が「紅葉踏み分け」ているのでしょう?

まず、「私」(作者)が紅葉を踏み分けながら奥山に行き、鹿の声を聞いていると考えられます。

また、紅葉を踏み分けているのは鹿で、その声を私が聞いているとも考えられますね。

主語を「私」とした場合、「奥山に」はどこにかかるのかが今ひとつわからなくなります。「奥山の紅葉踏み分け」なら分かるのですが、「奥山に」ですと「行く」とか「入る」とかの述語がないとおかしい感じがします。

でも、「私」が紅葉を踏み分けていたときに感じた寂しさに加えて、鹿の鳴き声が聞こえてきて、それで悲しさ倍増、というように「私」の動きと鹿の動き両方が表されていて、そこは良い点と言えるでしょう。

一方、「鹿」を主語とした場合、歌の続き方はなめらかになりますね、四句切れのようになり、最後まで一気に読むことができます。また、作者には鹿が紅葉を踏み分ける音と鳴き声、その二つが聞こえてきて秋の悲しさが増したということになり、五感のうちの聴覚に絞って感慨を表現したことになります。

どちらが秋のわびしさとか悲しさを感じられますか?私は、「鹿」を主語と取って、「私」は山の麓の里で耳を澄ませており、そこに鹿の紅葉を踏む足音と鳴き声の両方が聞こえてきた、という状況の方が、秋のわびしさが空間的に広がり、周りが満たされて、より強調されるというように読み解きました。


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