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百人一首で伸ばす読解力講座第1回:「秋の田の」(天智天皇)

これから不定期にはありますが、百人一首の歌を取り上げて、歌を詠みながら読解力を伸ばすための「読むポイント」を紹介していこうと思います。今日はその第1回。天智天皇の「秋の田のかりほの庵の苫をあらみ我が衣手は露に濡れつつ」です。

【現代語訳】秋の田の刈り穂を積んでおく仮の庵(小屋)は(屋根の)編み目が粗いので、私の衣は(落ちてくる雨で)露に濡れ続けているよ。

まず、作者に注目してください。天皇ですね。7世紀といいますから奈良時代より前の天皇です。で、その天皇が、この歌では農村に行ったことになっています。天皇の位にある人が農村に行くなんてことがありますかね? 「行ったと仮定(想像)しての歌」じゃないんですか? ま、行ってもいいんですが、じゃあ行った場合と行かなかった場合とで分けて考えてみましょう。

・行った→古来、和歌の世界では「衣(袖)が濡れる」=「涙を流す」という意味だと言われています。天智天皇自身はともかく、この歌を百人一首に選んだ藤原定家はそういうイメージを持っていたはずです。では、泣いているのだとしたら、この状況で作者はなぜ泣いていると思いますか。いくつか挙げられると思います。「大事な服が濡れてしまって悲しい」「農民の貧しさを実感して悲しくなった」「天皇である自分に対して失礼だ」etc...。わざわざ農村に行った(仮定、想像だとしても)うえでの歌だということを加味すると、想像が確かなものになってきますよね。

・行かなかった→歌の内容がまったくの想像だとしましょう。そうすると、作者は今どんな気分(楽しい、とか、悲しいとか)を感じていて、この歌を詠んでいたのでしょうね。気分を何か一つ決めて、その気分に合う言葉はどれかな?というように逆にたどりながら、作者の気持ちがこの歌に表されているかを確かめていくのも楽しいと思いませんか。 

もう一つ、全くの想像ではなく、この様子(情景)が絵か何かに描かれていたという可能性もあるかもしれませんね。それなら、もう何も考えることはありません。見たまんま、読んだまんまですから。でも思考力、読解力を伸ばすために、こう考えてみましょう。何か一つだけは想像だとしたら、どうしてそれを詠み込んだのでしょうか?というように。「かりほ(刈り穂、仮庵)だけは(絵にはなくて)想像」「雨が降っているのは想像」「人の姿(自分)は想像」いくつか考えられますね。だとしたらそれぞれ、わざわざ歌に詠み込んだというわけです。それを詠み込むことで、歌にどのようなイメージが加わるでしょうか。想像がいくつも膨らんで、それを考えることでこの和歌の理解も深まって行く気がしませんか? 

こんなふうに、百人一首の歌をただ解釈するのではなく、考える力、読解する力を育みながら味わう視点をお知らせしていけたら、と思っています。100番のゴールまで続くのか、いつまでかかるのかわかりませんが、よろしかったらお付き合いくださいませ。

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