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百人一首で伸ばす読解力講座第2回:「春過ぎて」(持統天皇)

ちょっとだけ間があいてしまいましたが第2回行きます。持統天皇の「春過ぎて夏来にけらし白妙の衣干すてふ天の香具山」です。

【現代語訳】春が過ぎて夏が来たらしい。真っ白な衣を干しているということだよ、天の香具山に。

「春過ぎて夏来にけらし」が前半、「白妙の衣干すてふ天の香具山」が後半だということは【現代語訳】からわかりますね。

前半が感想になっていて、後半がその感想を持つ理由、景色になっているわけです。

さて、この和歌の読解のポイントは「真っ白な衣を干す」です。なぜ白なのか?なぜ衣なのか?なぜ干しているのか?最終的にはこの疑問に答えたうえで、もう一度この歌を味わってみることにしましょう。

まず前半が「夏が来たらしい」で終わってますよね。もちろん後半の景色を見て、「この景色を見ると、どうやら夏が来たように思えるよ」ということなのですが、実際の日付、暦の上ではどうだったのでしょうかね? 2通り考えられると思います。1.暦の上ではもう夏に入っていたのに全然夏らしくないなあ」と思っていた所に来て、いかにも夏らしい景色を見た。つまり「やっと(夏が来た)」という気持ちです。2.暦の上ではまだ春なのに夏らしい景色がやってきてしまった。つまり「もう(夏が来た)」です。この「やっと」と「もう」では作者の気持ちが全然違います。どちらなのかということは確定できませんが、ここでは2通りの可能性があるということを頭に入れて後半を見ていきましょう。

では後半です。「白いころも干す」=夏が来た証拠、ということは前半との関係でそれでよいと思います。では「白い衣」って何でしょう?

これも2つ考えられます。そう、春服と夏服です。季節の変わり目ですからきっと衣替えなのでしょう。実際にこの歌が収められている新古今和歌集ではこの歌は夏の部の「更衣(衣替えのこと)」をテーマにした歌のグループに配置されています。その衣替えに干すのは今まで着ていた春服でしょうか?それとも今までしまってあった夏服でしょうか?どちらとも考えられますね。ちなみに古代の学者の中には、春服であると考えて、これは春に山にかかるという霞のことを例えた(比喩)ものだと言っている人もいます。霞が晴れていく様子を、白い衣を脱いで干すという動作に例えたというのです。

ここまで考えてくると、いろいろな選択肢、組み合わせが考えられそうです。そう、自由に読解していい歌なんですね。ただし、話の筋がきちんと通っていないといけません。

さらに!選択肢がもっと増えそうな可能性もあります。「天の香具山」は香具山という大和国(現在の奈良県)にある山なのですが、古来この山は神聖な山と思われてきました。だから「天の」と付いているのです。そんな神聖な山に服を干してもいいんでしょうかね?もしかして霞のように何かが服のように見えただけなのかもしれませんよ。それが証拠に「てふ」が付いています。「てふ」は「という」ですから、作者はこの景色を実際に見ていたわけではなさそうです。誰かから聞いたのでしょう。そうすると、その「誰か」には白い服に見えたというだけで、実際は服ではなかったのかもしれません。自然現象ならば霞、あるいは白い花だったかも。

いかがですか。ぱっと見では簡単そうな、情景とその感想を述べた歌だけのようですが、さまざまな可能性が生まれてくる歌ということがおわかりでしょうか。想像は自由です。しかし、きちんと読解できるようになるためには、そこには説明の論理性が求められるということなのです。


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