バナー柳原_世界文学の体温ラテンアメリカ文学

第4回 ラテンアメリカ文学概説——カルペンティエール『失われた足跡』を読みながら②(柳原孝敦)

※「ラテンアメリカ文学概説——カルペンティエール『失われた足跡』を読みながら①」(第3回)はこちら

ニューヨークを描く(承前)

 前回、カルペンティエールの『失われた足跡』(岩波文庫)はニューヨークとの対比で南米のジャングルを描く態度においてモデルニスモの詩人たちに通じるものだと断じた。そしてモデルニスモという潮流がラテンアメリカの文化的統一を訴え、「ラテンアメリカ主義」とでも呼ぶべき思考を産み出したことも説明し、その点において『失われた足跡』はラテンアメリカ小説なのだと位置づけた。今度はニューヨークの描写の異なる点に注目してみよう。
 最終章、南米のジャングルから一時帰国し、当初、秘境に迷った末に妻の献身的捜索によって救出された人物としてメディアからヒーロー扱いされた「わたし」は、妻ルースと離婚の協議を始めたことによって一転、悪者にされ立場を危うくする。ムーシュの悪意によるリークが追い打ちをかけ、妻を捨てて愛人との旅行を楽しんだ人物としてすっかり評判を落としてしまった。そうした窮地にある「わたし」がニューヨークの街をうろつく場面だ。

 帰り道をたどりながらわたしは、この都市が、一般に廃墟と考えられているもの以上に荒廃していることに気づいた。いたるところに病んだ柱と死にひんした建物があり、今世紀に用いられた最後の古典的な長押も、ルネッサンス様式の最後のアカンサスの葉飾りも、新しい建築によって見捨てられたそれぞれの様式のなかでひからびてしまっていたが、一方、新しい建築は、それに代わる秩序も、おおいなる様式もうみださなかったのである。パラディオの美しい意匠も、ボロミーニの奇抜な着想も、前時代の文化のよせあつめでできているファサードのなかですっかり意味を失っており、それもこれも周囲を席捲しているセメントで、まもなくぬりつぶされてしまうだろう。そのセメントの道路から、彼らをやしなってくれる企業にまたきょうも自分の時間を売った男や女が、ぐったりしてやってきた。彼らはきょうもまた、生きることなく、たんに暮らしたのであり、そしていまから、あすもまた生きることなく暮らすために、活力を補給するだろう。(『失われた足跡』岩波文庫版、強調は引用者)

 前回述べたように、モデルニスモの詩人にしてジャーナリストであったホセ・マルティはニューヨークの大衆文化を描き、そこに愛の不在を読みとったのだった。今、カルペンティエールの主人公「わたし」も離婚手続きがままならず、愛人に裏切られ、最愛のロサリオのもとにいつまで経っても戻ることができずにこの街をうろついているのだから、愛の不在を生きていることは間違いがない。その意味でカルペンティエールはマルティの論理の圏内にいる。
 しかし一方で、この街の記述はマルティが持つことのなかった視点からなされていることにも注意したい。建築の専門家、あるいは、少なくとも建築に素養のある者としてのそれだ。「長押」や「アカンサスの葉飾り」といった構造物の細部を名指しし、パラディオやボロミーニなどの建築家の名を挙げてその様式を想起させ、そうした上でそれらが「意味を失って」いることを指摘している。マルティは最新の建造物を人間にたとえる比喩によって愛を想起させたけれども、「わたし」は建築用語をちりばめて様式の不在を想起させているのだ。様式の不在は、南米の大河を遡る旅をしてきた「わたし」が彼の地に見出した古代ギリシヤそのもののような建築様式(第3章16節)などと対比をなして後者を印象づけることになる。これもやはり愛の不在同様、ラテンアメリカを称揚する前提たり得る「ラテンアメリカ主義のレトリック」と言っていいだろう。
 『失われた足跡』最終章のニューヨークの描写に関して指摘したい三点目は、末尾の強調部分である。ここで「わたし」は街行く人々をただ「生きることなく暮らす」存在とみなしている。彼らがそんな状態であるのは、企業に「自分の時間を売った」からであるという。つまり、労働により疎外されて生きる人々を見出しているのである。
 労働が疎外であるという考え方は、私見では、近年まれにしか見られなくなっているように思う。「夢」と「自己実現」の語によって個人の志向性の問題にミスリードされるばかりであるようだ。しかしながら、労働者個人の本来の時間を資本に売り渡し、それに従属することになる行為が自己疎外であるというヘーゲル/マルクス的考え方は、小説が舞台としている20世紀半ばには一般的な見方であった。疎外とは他者化であり除け者化であるわけだが、働いている間の自分は自分のものではないのだから他者化されている。つまり疎外されているのである。さりとて労働外の時間には疲労困憊し自分を取り戻すようなことは何もできず、ただ明日に備えて休むだけだ。そうした現状を「わたし」は「生きることなく暮らす」と表現しているのだろう。
 一方で、同じくマルクスによれば、労働はまた消費でもあり、労働者は自らの生産のための消費をも行っている(『資本論』)。この堂々巡りの活動は自らの尻尾を食らう蛇ウロボロスや、重い石を山上まで担いでいったと思うとそれを手放し、山麓に転げ落ちて行くにまかせ、また山を下りて石を担いで登るというギリシヤ神話のシシュフォス(シーシュポス)の活動にもたとえられそうだ。事実、『失われた足跡』の「わたし」は自身をいくどもシシュフォスにたとえるし、〈先行者〉の共同体、ロサリオの待つサンタ・モニカ・デ・ロス・ベナードスへの帰還が叶わないことを悟った際にも「きょうで、シシュフォスの休暇は終わった」と結論づけるのだ。
 労働が自己疎外であるという認識を私は「ヘーゲル的/マルクス的」考え方だとしたけれども、ここにシシュフォスの神話を持ち出すと、もうひとつ別の名が想起されるのは必然の成り行きだ。もうひとつの名というのはアルベール・カミュであり、彼の『シーシュポスの神話』(1942)だ。シシュフォスのごとき堂々巡りの存在様態はカミュにあっては「不条理」の語で形容されたのであった。「馬鹿げたこと/馬鹿馬鹿しさ」absurde の意である不条理は人間存在の根源的条件としてカミュやその同時代人にして一時期は盟友であったサルトルらによって論じられ広く認知された。キェルケゴールやハイデガーらから受け継ぎ、サルトル、カミュらのフランスの戦後世代が広めたのが実存主義と呼ばれる思潮だった。「疎外」がマルクス主義的とするなら「不条理」は実存主義的タームだ。
 第二次世界大戦後にサルトルらに主導され世界各地で流行した実存主義は思潮としてもファッションとしてもラテンアメリカ各国に届き、多大な影響を与えた。連載第2回でほのめかしたように、カルペンティェールはサルトルとほぼ同年であり、かなり彼を意識していた節が見られる。カルペンティエールよりだいぶ若いペルーのマリオ・バルガス=リョサ(1936-)には『サルトルとカミュの間で』(1981)というエッセイ集がある。さらに若いメキシコのホセ・アグスティン(1944-)はその著書『メキシコにおけるカウンターカルチャー』(1996)で同国の対抗文化の源流のひとつにファッションとしての実存主義を見出している。
 こうした状況証拠から考えても、またテクストに散見される用語などから判断しても、『失われた足跡』は実存主義の時代の産物であり、カミュなどの同時代の(実存主義的)テクストと共鳴しているのである。そうしたテクストの連関について考えてみよう。

テクストの横の連関(同時代性)1 シュルレアリスム

 サルトルらとの連関を述べる前に、時代順に実存主義の前の世代との連関を述べておこう。『失われた足跡』においてまず気づくのは、作者カルペンティエール自身も浅からぬ関係を持ったシュルレアリスム、もしくはそれを頂点とする20世紀前半を彩る数々の前衛芸術の潮流である。とりわけそれを体現しているのは、「わたし」の愛人ムーシュだろう。
 占星術師であるムーシュは「霊媒をかたく信じ、安っぽいシュルレアリスムで知的形成をなしていた」。「わたし」はそんな彼女の「サンジェルマン・デ・プレあたりのビアホールでふきこまれたものの見方やしぐさに対する、ひとりよがりな傾倒」に苛立ちつつも、その肉体に溺れ、ズルズルと関係を持っている。怪しげな芸術家気取りたちとの交遊にふけるボヘミアンなムーシュだからこそ、南米のジャングルに興味を示したりするのである。「前衛」を標榜するモダニズムは、よりモダンであるために西洋近代を否定し、西洋的理性の外に憧れるものだからだ。アンドレ・ブルトンやアントナン・アルトー(ジャワにも傾倒した)がメキシコを訪れ、ロベール・デスノスがキューバにやって来てカルペンティエールの案内で黒人文化に触れた事例がその傾向を物語っている。
 そんなムーシュであるから、首都の街のホテルで知り合い、クーデタによる混乱を避けるために別荘のある地方都市ロス・アルトスに誘ってくれたカナダ人画家に傾倒するのである。何しろ彼女は「アン・ラドクリフやルイスに関する評論によってよく知られた詩人の愛人」だったからだ。この「詩人」が実在の誰かをモデルにしているのかどうかは不明だが、ラドクリフやルイスといったシュルレアリストたちにも愛された作家を扱っているのだから、ムーシュにとってはわかりやすい憧れの対象なのだろう。
 シュルレアリスムに傾倒するムーシュは、旅を続けるにしたがってその皮相さが際立ち、「わたし」の嫌悪感を買うばかりなのだが、さすがにそのシュルレアリスム的感性の及ぶ範囲内では、存在感を発揮することもある。「わたし」が「馬の国」と名づけた土地の先にあるサンティアゴ・デ・ロス・アギナルドスの港町を去るときのことだ。「船べりにひじをついたムーシュは、神秘性や超現実的なイメージの喚起ということになれば、近代のもっともすぐたれ画家の想像力も、この幽霊のような町の一見におよばないのではないか」と言ったムーシュの判断を「わたし」は「なるほどムーシュの感想はなかなか気がきいていた」と部分的に認めたりもするのだ。そんな気のきく発言をしてもなお、嫌悪感が拭えないほどに彼女に対するさげすみは「飽和点にまで達していた」ともつけ加えるのではあるが。
 ムーシュの発話にある「超現実的」の語は、もちろん、超現実主義(シュルレアリスム)を意識して採用された訳語であろうが、原語を示せば “lo maravilloso” すなわち「驚異的なもの」の意味である。これについては説明が必要であろう。今、小説内でムーシュが引き受けているシュルレアリスムに傾倒する芸術家気取りの人物は、若かりしころのアレホ・カルペンティエールその人を想起させるものであることも間違いない。ムーシュの態度も、それをさげすむ態度も、作家自身のものなのだ。
 ヨーロッパでの動向に波長を合わせるように、ラテンアメリカ各国でも前衛を標榜する詩や芸術のムーヴメントが隆盛を見たのが、作家が青年時代を過ごした1920年代のことであった。キューバではそうした動向の発露としてアフロクバニスモと呼ばれる詩や学芸の動きが見られた。黒人すなわちアフリカ系のキューバ人たちの語法や風俗習慣に対する関心が高まったのだ。詩の分野でそれを代表するのがニコラス・ギジェンだ。黒人たちの語法や話法を採り入れた『ソンのモチーフ』(1930)所収の詩は、折から、タイトルにある音楽ジャンルのソンからの発展形としてのルンバやコンガといった新しいリズムを生み出しつつあった同時代のポピュラー音楽と共鳴し、ヒット曲の歌詞を提供することになるだろう。学問としての黒人研究はフェルナンド・オルティスの『タバコと砂糖のキューバ的対位法』(1940)において文化間相互変容transculturación の概念を得て新たな文化理論へと展開していく。カルペンティエールはこれらの詩人や研究者の仲間であったし、自身、アフロクバニスモ的な詩やバレエ台本などを書いていたのだった。バレエ台本『レバンバランバ』(1928 初演は1961)や最初の小説『エクエ・ヤンバ・オ―』(1933)にはオルティスの研究した19世紀の黒人たちの祭が取り込まれてもいる。後年、『バロック協奏曲』(1974)では同じモチーフをより洗練した形で採用している。
 一方、1928年、国際作家会議にやって来たシュルレアリストのロベール・デスノスの知遇を得たカルペンティエールは、彼の助けを借り、半ば亡命のようにしてパリに逃れた。その数ヶ月前、前衛グループの仲間たちと発表した反体制的な声明を機に数週間投獄され、身の危険を感じたのだ。デスノスがやってきた作家会議そのものが、カルペンティエールらの投獄を機に沸き起こった批判をキューバ政府がカムフラージュしようとして催したものだった。かくしてパリに逃れた若きカルペンティエールはデスノスとともにラジオ番組を製作するなどし、他のシュルレアリストたちとも親しくつき合った。
 ことはひとりカルペンティエールの問題ではない。同時期にパリにいて親好を結んだグアテマラのミゲル・アンヘル・アストゥリアスもまたシュルレアリスムに接近していた。メキシコのオクタビオ・パスもシュルレアリスムの多大な影響下で詩作することになる。カルペンティエールよりも5歳年長のアストゥリアスから10歳年少のパスまでを含むこの世代の多くの作家や芸術家たちがシュルレアリスムの影響を免れることは難しかったと言っていいだろう。ムーシュとはカルペンティエールその人であり、他の多くの同世代の芸術家の代表に他ならないのだ。
 この潮流のこれだけ多大な影響力から抜け出し、自らの地歩を築くためには、一度は激しくそれを否定しなければならなかった。カルペンティエールが自らの創作原理を声高に宣言したのは1949年の『この世の王国』(木村榮一・平田渡訳、水声社、1992)序文においてであったが、これはつまるところ、シュルレアリスム(そのエピゴーネン)批判であったのだ。
 ハイチ革命を扱った中篇小説『この世の王国』を着想したのは、カルペンティエールがハイチに旅行した1943年のことだった。そのとき、「ヨーロッパのいくつかの文学は、ここ三十年ばかり懸命になって驚異的なものを呼びさまそうと努めており、それが特徴ともなってきたが、ハイチのあのような現実をもとにすれば、易々とそれに近づき得るのではないかという気がした」(木村榮一、平田渡訳)として自らの「現実の驚異的なもの」の創作理念を打ち出したのが、その序文だ。ここで言う「ヨーロッパのいくつかの文学」の最たるものがシュルレアリスムであり、それが「驚異的なもの」lo maravilloso を呼びさまそうと努めているのは、アンドレ・ブルトンが『シュルレアリスム宣言』で「文学の領域では、驚異だけが、小説とか、(略)作品を、豊かにできるのである」(江原順訳、一部語句を変更)と書きつけたことに由来する。ここで「驚異」と訳されているものがすなわち、 le merveilleux 「驚異的なもの」である。この語の採用からみて、どうやらカルペンティエール自身、「驚異的なもの」の概念の効力には疑問は抱いていないようだ。彼もまたそれを求めているのだ。しかし、「芸術の奇術師たちは驚異的なものを生み出そうと努めるあまり、けっきょくは官僚化してしまっている」ことが問題なのだ。しかるに、ハイチには「驚異的なもの」が目に見える現実として存在する。それを描いたのが『この世の王国』である、と自らの姿勢を打ち出している。それが「序文」の大まかな内容だ。
 シュルレアリスムの主張の眼目のひとつがブルトンの宣言に言う「驚異的なもの」であるのだと考えれば、シュルレアリスムを体現しているらしいムーシュがそれを見出し、そのことに「わたし」が「なかなか気がきいていた」と感心するのはうなずける。アメリカはこうしてシュルレアリストの目を通して見出されるのである。しかし、それを見出したムーシュはあくまでも嫌悪の対象であり、彼女はこの現実にそれ以上近づくことはできない(事実、直後、彼女は一行から離脱し帰国する)。つまり引用した一節およびムーシュの作品内での機能は、「驚異的なもの」はアメリカに現実として存在するという『この世の王国』「序文」の内容のアレゴリカルなレベルでの再生産なのだ。あるいは、『失われた足跡』そのものが「序文」のアレゴリーになっている。

テクストの横の連関(同時代性)2 ラテンアメリカのクリオジスモ

 『失われた足跡』最終章のニューヨークでの出来事について、もう1カ所だけ指摘しておこう。いったんは遭難を乗り越えて無事帰国したヒーローとして扱われた「わたし」は、ある新聞社から手記の執筆を依頼される。結局「わたし」は手記を書いて金を受け取り、それを離婚の慰謝料に充てることになるのだが、当初、「旅のあいだあたためていた作り話」を書こうとしていたという。「たったひとりでジャングルの中を何百キロも歩い」た末に「〈伝道区〉にたどりつき、そこで発見された」という物語だ。それについて「わたし」はこのような補足も忘れていない。

わたしはスーツケースのなかに、ある南アメリカの作家が書いた有名な小説をもっていたが、それには、動物や植物の名前、原住民の間に伝わる伝説、故事など、わたしの話に信憑性を与えるために必要なすべてが、ふくまれていた。(岩波文庫版)

 ここで示唆されている「ある南アメリカ作家が書いた有名な小説」とは何か? 動植物の名や伝説などをふんだんにちりばめ、それを引用ないしは剽窃することが「わたしの話に信憑性を与える」はずの小説とは、誰の何という作品だろうか? 
 動植物名や伝説に満ちた「有名な小説」とは、たとえば、次のような一節を含むものに違いない。

 そこはマポーラ〔椰子の一種〕の森だった。深く澄んだその森がサバンナの広大な陥没地帯を覆っている。その名は一羽の小さなサギに由来するのだが、古い伝説によればそれは、そこによくいて、一帯の唯一の住民だったとのこと。呪われた土地で、胸に響くほどの沈黙が支配し、雷に打たれて黒くなった椰子の木も数多く、中心にある湿地帯では、足を踏みいれようとする生き物ことごとくが泥に飲み込まれて死んでいったという。
 名前の由来となった鳥(チュスミータ)は、伝説が言うには、ある先住民女性の成仏しきれない魂ではなかろうかとのこと。ヤルーラのある共同体の首長の娘で、その共同体というのは、ちょうどエバリスト・ルサルドが一族郎党を引き連れてアラウカ渓谷に移ったころにその辺りに住んでいたのだった。(『ドニャ・バルバラ』拙訳を使用。〔 〕内は訳注、( )内はルビ)

 ロムロ・ガジェーゴス『ドニャ・バルバラ』(1929/寺尾隆吉訳、現代企画室、2017)第10章冒頭の記述である。なるほどここには動植物(サギや椰子、それらを表す現地語チュスミータや当地の種であるマポーラ)などの名と先住民の伝説とが含まれている。『失われた足跡』で「わたし」が旅する南米の地は匿名化されてはいるものの、大半がベネズエラであることは知られたことだ。ベネズエラのジャーノLlanoと呼ばれる内陸の平原地帯(サバンナ、陥没地帯)を舞台にした小説である『ドニャ・バルバラ』は確かに、「わたし」の話に信憑性を与えそうな描写に満ちている。
 上で『失われた足跡』と連関があるとしたシュルレアリスムは、そしてそれを頂点とする前衛の文学運動は、主に詩の分野で展開された。同時代の散文、というか小説では地方主義、もしくは「クリオジスモ」と呼ぶ人もいるある種の傾向において優れた成果が見られた。クリオジスモcriollismoとはクリオーリョ(クリオージョ)criollo すなわちアメリカ大陸生まれの(者たちの)文化であり、カルペンティエールが身を投じたアフロクバニスモや、先住民人口の多いメキシコやペルーなどで起こったインディヘニスモらもその一変種と言っていいかもしれない。1920年代、各国のいまだ開拓されざる深部を舞台にした小説群は、新たな時代を画すものとして高く評価され、現代までカノンであり続けている。
 そうした潮流のベネズエラにおける代表作が『ドニャ・バルバラ』である。隣のコロンビアではホセ・エウスタシオ・リベラ『大渦』(1924)が生まれ、いずれも近年でもテレビドラマになるなどして親しまれている作品だ。アルゼンチンでは、前回言及したガウチョ文学の流れの末端にリカルド・グイラルデス『ドン・セグンド・ソンブラ』(1926)が生まれた。これらの小説にはカルペンティエールも大いに刺激を受けたらしい。この3作品にパリ時代の仲間でもあるベネズエラ作家アルトゥーロ・ウスラル=ピエトリの『血塗られた槍』(1931)を加えた作品群についてのエッセイをパリの雑誌に発表したこともある。ウスラル=ピエトリのそれはシモン・ボリーバルを扱った歴史小説なので、いささか趣を異にするが、ともかく、カルペンティエールは自身、小説を志向する人間としてこれらの作品に大いに刺激を受けたようだ。
 『ドン・セグンド・ソンブラ』についてはホルヘ・ルイス・ボルヘスが興味深い指摘をしている。「アルゼンチン作家と伝統」というエッセイにおいてだ。

しかし、『ドン・セグンド・ソンブラ』をガウチョ的伝統に基づく諸作品と比較してみる時、まずわれわれが気づくのはむしろその相違である。『ドン・セグンド・ソンブラ』にふんだんに用いられている暗喩は、モンマルトルに集った同時代の芸術家たちの息吹をそのまま伝えるものではあるが、大草原の言葉とはおよそ無縁である。そして寓話や歴史については、インドを舞台として展開されるキプリングの物語『キム』の影響を認めることは容易であるが、『キム』はまた、ミシシッピーの叙事詩であるマーク・トウェーンの『ハックルベリ・フィンの冒険』の影響下に書かれたものである。こういったからとて、私は『ドン・セグンド・ソンブラ』の価値を貶めようというのではない。それどころか、われわれがこの本を手にすることができるのは、グイラルデスが当時のフランスの文学者たちの詩的技巧に、そして何年も前に読んだキプリングの作品に想をいたしたからであることを強調しているのだ。つまり、まぎれもなくアルゼンチン的であるこの書物には、キプリングとマーク・トウェーンとフランスの詩人の暗喩が必要だったのであり、これらの影響がそのアルゼンチン性を減ずるようなことは決してなかったのである。(『論議』所収、牛島信明訳)

 この指摘は、アルゼンチンの作家にとって「伝統」とはガウチョ文学であるとする説に対する反論として提示されている。ガウチョ詩は「すぐれて技巧的なひとつの文学ジャンル」で、作家たちによって実際のガウチョたちの歌う詩よりも「意図的に土着臭の強い」ものとして作られてきた。そのような作為的な「アルゼンチン性」に立脚するのでなく、「当時のフランスの文学者たちの詩的技巧」やキプリングらに頼っていながら「まぎれもなくアルゼンチン的」でもあることが『ドン・セグンド・ソンブラ』の特長なのであるというのがボルヘスの主張だ。私がこの時代のラテンアメリカ文学の動向をヨーロッパの前衛芸術運動と関連付けるゆえんである。
 ガジェーゴスの『ドニャ・バルバラ』が『ドン・セグンド・ソンブラ』に対するボルヘスの評価と同種のものを引き出したかどうかは、寡聞にして知らない。ウルグアイの批評家エミール・ロドリゲス=モネガルなどは、小説というよりはロマンスであろうと述べてさえいる( “Doña Bárbara: texto y contextos” )。ただし、小説ならぬロマンスに見られるアレゴリー的要素や心理劇の描き方は、ヨーロッパの19世紀リアリズムにおいては小説ならざるものとして蔑まれたかもしれないが、ラテンアメリカでは生き延び、カルペンティエールや後のブームの世代にも受け継がれたものであるとして、肯定的に捉えているのではあるが。
 いずれにしろ、『失われた足跡』はシュルレアリスムに加えラテンアメリカの地方主義(「クリオジスモ」)小説との繋がりを示唆している。後者にはそれ自体が同時代のヨーロッパの動向と関連づけられるものもあれば、上の世代から受け継ぎ下の世代に橋渡しされる要素もある。テクストは常に他のテクストとの関連で成立する。ラテンアメリカ文学といえども、この基本命題に対する否定になるものではないということを確認しておこう。

テクストの横の連関(同時代性)3 文化人類学

 私の立脚点は『失われた足跡』がその後のブームの作家・作品の先駆となり、あるいはそれらと共鳴し合い、共通の問題関心を有するものだということだった。そろそろブームの作家たちとの関係を見ていこう。まず何よりも『失われた足跡』が切り拓いたのは、先住民文化に対する文化人類学的・民俗学的調査を文学作品に結実させるというひとつの道筋だ。この点で後の世代に傑出した成果をあげたのはマリオ・バルガス=リョサだった。カルペンティエールとバルガス=リョサを繋ぐ線を見ていこう。
 1947年2月2日、ベネズエラの自然科学博物館で民俗学研究部門が発足した。後の国立民俗学研究所であり、さらに改名して現在では民俗音楽学および民俗学基金(FUNDEF)を名乗る機関だ。この研究所の所長はカルペンティエールの友人でもあった作家のフアン・リスカーノ、その時点で10年ほどこの分野の研究に従事してきた人物だ。この民俗学研究部門の発足を飾ったのは、具体的に言うと、写真家フランシスコ・エドムンド・ペレスの写真展だった。前年の6月、太っちょペレスのあだ名を持つこの写真家がバルロベント地方に旅行して撮影したサン・フアン祭とその太鼓の舞踊の様子を伝える写真だ。この旅に同行したのが同部門所長のリスカーノとほかならぬカルペンティエールだった。写真展のほかにこの部門の発足を記念する連続講演会も開かれているが、カルペンティエールはそこで「スペインと南北アメリカの黒人たち」という講演をしている。
 バルロベントでペレスが写真に収め、リスカーノとカルペンティエールが目撃した舞踊に使われた太鼓というのが、『失われた足跡』で「わたし」が探索に行くことになる原始の楽器(もしくはそれにヒントを与えたもの)であろうが、この踊りそのものに関しては小説内では言及されていない。その代わり、と言っては何だが、サンティアーゴ・デ・ロス・アギナルドスという町で「わたし」は先住民たちによって興味深い変形を被ったキリスト教の祭礼を目撃することになる。

しかしそのとき、太鼓とかん高いフルートの音が響きわたり、数人の〈悪魔〉が広場のかどに姿をあらわし、その足で、焼け落ちた大聖堂のむかい側にある、れんがとしっくいでできたみすぼらしい教会にむかってきた。踊り手たちは、キリスト教のある結社の苦行者のように、顔を黒い布でおおい、小さくとびはねながらゆっくり進んできた。(岩波文庫版)

 やがて使徒ヤコブと合流するこの聖行列、およびそこに現れる〈悪魔〉は「サンフランシスコ・デ・ヤーレの悪魔」と呼ばれるもので、カルペンティエールもエッセイなどで何度か紹介している。この聖行列に出くわすのが、「わたし」がその町の廃墟となった大聖堂に、「天使たちがバスーン、リュート、オルガン、ヴィオラ、そしてマラカスなどを演奏」する「天上の音楽会」の浮き彫りを目撃した直後だったことも興味深い。この光景を作家はアルゼンチンのとある伝道所で見たと、その名も「マラカスの天使」というタイトルのエッセイで書いている( Visión de América 所収)。そしてこのエッセイは作家がバルロベントで見聞きした事象に始まるものなのだった。
 カルペンティエールがバルロベントで見聞きした事象とは、エルナン・コルテスがメキシコ征服に向かうに際して「武運」を祈って朗唱した「シャルルマーニュ系列」のロマンセ(14世紀ごろ、叙事詩の断片化に始まる民衆詩)と同じものをこの地の詩人が歌ったというものだ。この経験に対応する出来事は、『失われた足跡』では「マンドリンを爪弾」く流しの詩人の光景として、先ほどの〈悪魔〉の聖行列の直後に描かれる。それはまた、上に引用した、ムーシュが「驚異的なもの」のイメージについてコメントをしたシーンの直前でもある。

そして彼らの歌は、わたしをいっきょに、眼前にほうふつとしていた場景のはるかむこうにまで運び去った。黒い顔の二人の吟遊詩人がうたう民謡には、シャルルマーニュが、ローランが、大司教テュルパンが、そして裏切り者ガネロンが登場し、またロンセスバーリェスでムーア人をたたき斬った刀のことまで語られていたからである。

 イギリスでバラッドと呼ばれたもののスペイン版と言うべきロマンセは、レコンキスタの英雄を歌った叙事詩『わがシッドの歌』(1207頃)が断片化したものとされるが、吟遊詩人たちが歌って伝播させたロマンセはこの系列にのみよるものではない。アーサー王やシャルルマーニュ、『ローランの歌』などに関係するものも多く、こうして伝わった物語がやがて騎士道物語へと展開していくのではあるが、そうしたものの一部が、征服期、アメリカ大陸の植民地各地に伝播し、独自の変遷を遂げたことも今ではよく知られている。カルペンティエール自身が、スペインのロマンセとアフリカのリズム由来のリフレインが融合して新たな音楽形式ソンが植民地期キューバで成立したことを突き止めた人物だ(『キューバの音楽』1945)。エッセイ「マラカスの天使」も、バルロベントでのロマンセのエピソードから始まり、そうしたロマンセの展開、現代音楽との関わりを論じ、マラカスを演奏する天使の絵の話で終わるのだった。ロマンセがアメリカ大陸の奥地に今も征服期のままに残存するさまは、この場面に限らず『失われた足跡』において何度か繰り返される。
 アルゼンチンに存在するマラカスを持った天使、サンフランシスコ・デ・ヤーレの悪魔、バルロベントで聞いたスペインのロマンセ、これら異なる地域の事象がひとつの町サンティアーゴ・デ・ロス・アギナルドスに集約されて併存している。カルペンティエールの小説の特長のひとつは、このように異なる時空間に属するものを一カ所に集めて作る一種の象徴空間にあるのだが、この場面(第3章12節)はテーマにおいても手法においてもカルペンティエールのエッセンスが詰まった場と言えるだろう。その構成要素の少なくともひとつは、ベネズエラにおける民俗学研究の始まりを記す旅に由来しているのだ。
 同様に研究旅行の成果を取り込んで書かれたのがマリオ・バルガス=リョサの1966年の『緑の家』(木村榮一訳、岩波文庫、2010)だ。以前言及した初の長篇『都会と犬ども』で注目されたバルガス=リョサが、その3年後に発表して前作がフロックではなかったことを証明した大作だ。翌年、過去5年間にスペイン語で出された最も優れた小説というコンセプトで始まったロムロ・ガジェーゴス国際小説賞(後に2年に1度の賞に変更)を受賞し、これで作家の名声が揺るぎないものとなった。『ドニャ・バルバラ』の作者にして同国の大統領も務めたガジェーゴスを記念して設立されたベネズエラのロムロ・ガジェーゴス・ラテンアメリカ研究センター(CELARG)が主催するこの賞の第2回の受賞作がガブリエル・ガルシア=マルケス『百年の孤独』(1967)、第3回がカルロス・フエンテス『テラ・ノストラ』(1975)だと言えばこの賞の重要度がわかるだろう。
 『緑の家』はペルー北部の砂漠地帯の都市ピウラに立つ娼館〈緑の家〉の浮沈の物語とその街の不良グループの群像、アマゾン地帯での治安警備隊とキリスト教の伝道所が結託した先住民誘拐問題とを交互に語り、その語り口の妙によって読者を引き込む小説だ。〈緑の家〉のストーリーとピウラの不良グループの群像はそれぞれ時間差を置いたふたつの物語として語られるので、複雑だ。アマゾン河の支流マラニョン川中流域の川中島に隠れて暮らす日本人フシーアなる人物の過去の回想も加わり、6つばかりのプロットが入れ替わり立ち替わり現れて読者を飽きさせない。読み進めていくうちに、当初いくつもの錯綜する物語と思われたものの関係が徐々に明らかになっていく。
 この小説のピウラでのパートはバルガス=リョサが1945年から1年だけこの都市に住んでいたときの思い出に端を発する。残りの半分は1957年、奨学金を得てマドリードに出発する直前の作家がアシスタントとして同行した人類学調査で得た情報から紡ぎ出された。内戦後のスペインを逃れてメキシコに移住した人類学者フアン・コマスが、ペルーのサン・マルコス大学および夏期言語学研究所の協力を得て行ったアマゾン地域への調査旅行だ。作家はそこで、サンタ・マリーア・デ・ニエバという地の伝道所が先住民のための学校を作り子どもたちに教育を授けようとするのだが、彼らがなかなか通ってこようとしないものだから、治安警備隊の助けを借りて子どもたちを誘拐して伝道所に住まわせ、無理矢理教化しているとの話を聞く。素性も怪しげなトゥシーアなる日本人(トシヤ?)がどこかに隠れ住んでいるという噂話を聞く。戦争で収容されるのを恐れて逃げたのだとも、何か罪を犯して官憲の目から隠れているのだとも言われるが、実際は誰も見たことがなく、それはあたかも伝説のようなのだった( Historia secreta de una novela )。この調査旅行で得たこうした話は、かなりの部分、『緑の家』に活かされている。
 小説のこのような誕生秘話を語りながら、「ペルーは20世紀の国であるばかりでなく、(略)〈中世〉でも〈石器時代〉でもある」との感慨を述べるバルガス=リョサの言葉は、まるで『失われた足跡』の「わたし」のようでもある。彼はまた、人類学者として先住民社会に精通し、その世界を小説に描いたペルーのインディヘニスモを代表する作家ホセ・マリア・アルゲーダスについての評論も書いており、この領域への関心があるに違いない。ただし、『緑の家』に結実したのは、先住民の文化の描写というよりはその周辺に存在する社会問題(修道院と治安警備隊による先住民誘拐問題)なのだった。カルペンティエールが宗教儀式や音楽、植民地期以来残存する民衆詩などを小説に活かしたのとは、だいぶ異なっている。
 その代わりバルガス=リョサは、このときの体験を基にその後もう一本小説を書いた。1987年の『密林の語り部』(西村英一郎訳、岩波文庫、2011)だ。作家自身と思われる「私」が学生時代の友人マスカリータを回想するパートと、文化人類学の学問研究を投げ出し、研究対象であった先住民社会の「語り部」になったその人物の語りと思われるものが交互に展開する小説だ。これなどは、その第二のパートにおいて、彼なりの先住民文化研究の成果を披露したものと言えるのかもしれない。
 ただし、それ以上にこの作品はオートフィクションの手法において注目すべきものだろう。作家と同定される人物を語り手にした小説手法で、バルガス=リョサ自身は1983年の『マイタの物語』(寺尾隆吉訳、水声社、2018)ではじめて採用したものだ。その前年、82年にはガルシア=マルケスが『予告された殺人の記録』(野谷文昭訳、新潮文庫、1997)で同様の試みをしている。作家が忘れられた過去の歴史や家族の秘密などを解明していく展開で採用されると実にスリリングで面白い効果を上げるこの形式は、より若い世代の作家たちが自家薬籠中のものとしている。邦訳された作品としてはスペインのバスク語作家キルメン・ウリベの2作(『ビルバオ―ニューヨーク―ビルバオ』および『ムシェ』いずれも金子奈美訳、白水社、2012、2015)、ハビエル・セルカス『サラミスの兵士たち』(宇野和美訳、河出書房新社、2008)、ハビエル・シエラ『プラド美術館の師』(八重樫克彦、八重樫由貴子訳、ナチュラルスピリット、2015)などがすぐに思い浮かぶが、未邦訳のものでもチリのアルベルト・フゲー『ミッシング』Missing (2009)、メキシコのジョルディ・ソレール『負け戦』3部作 La guerra perdida (2012: 『海を越えたアカたち』『最後の日の最後の時』『熊の祭』を合本)などは取り分けて面白い。
 その後のオートフィクションへの展開はともかくとして、カルペンティエールとバルガス=リョサはこのように、文化人類学的興味において、あるいは少なくともその研究の現場に居合わせたという経歴において共鳴する。既にほのめかしたように、バルガス=リョサが親しんだホセ・マリア・アルゲーダスは自身、文化人類学者でもあった。カルペンティエールの盟友グアテマラのノーベル賞作家ミゲル・アンヘル・アストゥリアスはパリでジョルジュ・レイノーという文化人類学者に師事し、故郷のマヤ系先住民キチェーの民話『ポポル・ヴフ』などのスペイン語訳に携わっている。その経験を基に生まれたのが1930年の『グアテマラ伝説集』(牛島信明訳、岩波文庫、2009)だった。作品にこそ結実しなかったけれども、メキシコのフアン・ルルフォは国立先住民研究所に勤務していた。20世紀のラテンアメリカ文学は常に文化人類学の隣にあったのだ。
 その点で『失われた足跡』はその出版のタイミングも絶妙であった。1955年にガリマールから『水の分岐』Le partage des eaux のタイトルで出版されたフランス語訳(ブルトンに『失われた足跡』というタイトルの著作があり、それと混同されないようにとの配慮だ)は翌年、最良外国図書賞を受賞している。その前年から『この世の王国』が評判を呼び、カルペンティエール自身もこうしてフランスで認知されることにたいそう喜びを感じた出来事だった。ところで、『水の分岐』の前年にフランスの読書界の話題をさらったのが文化人類学者クロード・レヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』であったという巡り合わせは看過してはいけない。絶妙のタイミングとはこの巡り合わせのことだ。その後『野生の思考』や『構造人類学』によってフランスの、そして世界の知のあり方を変えることになるレヴィ=ストロースのフィールド(ブラジルのナンビクワラ)への旅の記録から時を置かずして、隣国ベネズエラの民俗学・文化人類学的研究のいわば副産物であるこの作品が注目を浴びたということなのだ。ささやかなものかもしれないが、カルペンティエールの作品はフランスに発した20世紀の文化史の転換に寄与したかもしれないのだ。レヴィ=ストロースはこの後、当時支配的知識人であったサルトル批判を展開、サルトルが過激化していくにつれ、すっかりフランスの知性の代表とみなされることになるだろう。『失われた足跡』は実存主義もその批判者であった構造人類学も参照点として内包するテクストと言えるのだ。
 ただし、カルペンティエールとレヴィ=ストロースの関係を扱った日本の批評家に三浦雅士がいるが、彼は、カルペンティエールが「失われた始原」を見出しながら、それを一種の冥府下降譚として語り、最後に「明らかに実存主義の谺が聞こえる」結末部で「主人公は歴史を批判するどころではない。逆に歴史に参加しつづけなければならない」としている点で「その底にヨーロッパ中心主義批判、人間中心主義批判を秘めながら、(略)ここで明瞭にレヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』と異なっている」と批判している。レヴィ=ストロースが主張したことは、「「失われた始原」は歴史を遡ることによって見出されるのではなく、歴史という範疇から離れることによって見出される。あるいは、歴史的な物の見方や考え方を批判することによって見出されるものである。始原は歴史に属するものではない、むしろそれを批判するものなのだ。カルルペンティエルとレヴィ=ストロースの違いは、おそらくここに収約される」(「歴史と始原」野谷文昭、旦敬介編著『ラテンアメリカ文学案内』所収)というのだ。
 三浦が「明らかに実存主義の谺が聞こえる」とした結末部は、最後から2段落目の以下の文章だ。

なぜならば、時間とのかかわりを断つことを許されない唯一の人種が芸術家であり、芸術家は、きょうはきのうより進歩したことの具体的なあかしを立てねばならないばかりか、きょうまでになしとげられたことをしっかりとふまえたうえであらたな進歩の具体的なあかしを立てながら、後続の芸術家の歌と形式をも予知していかねばならないからである。マルコスとロサリオは歴史を知らない。

 なるほど、こう述べる主人公「わたし」のそれは明らかに歴史主義的な態度であり、その背後には西洋中心の進歩史観が透けて見えそうだ。せっかく歴史を批評しうる始原の旅を展開してみせた小説『失われた足跡』の結論としては拍子抜けだとする三浦の批評もうなずける。しかし、これはあくまでもその「始原」に戻ることのできなかった「わたし」の諦めにも似た帰国の決意なのであり、小説が示している歴史観は必ずしもこの文章に集約されるものではないのではないか。次回はテクストを歴史的な軸において、つまりその縦の連関において眺めることから始めよう。

プロフィール

柳原プロフィール写真_丸

柳原孝敦(やなぎはら・たかあつ)
1963年、鹿児島県名瀬市(現・奄美市)生まれ。東京外国語大学大学院博士後期課程満期退学。博士(文学)。東京大学教授。著書に『テクストとしての都市 メキシコDF』(東京外国語大学出版会)、『ラテンアメリカ主義のレトリック』、『劇場を世界に——外国語劇の歴史と挑戦』共編著(以上、エディマン/新宿書房)、『映画に学ぶスペイン語』(東洋書店)。訳書にアレホ・カルペンティエール『春の祭典』(国書刊行会)、フィデル・カストロ『少年フィデル』、『チェ・ゲバラの記憶』監訳(トランスワールドジャパン)、ロベルト・ボラーニョ『野生の探偵たち』共訳、カルロス・バルマセーダ『ブエノスアイレス食堂』、(以上、白水社)、セサル・アイラ『文学会議』(新潮社)、フアン・ガブリエル・バスケス『物が落ちる音』(松籟社)ほか。

「亜熱帯から来た男」過去の記事

第1回 ラテンアメリカ文学との出会い

第2回 古本屋のオヤジにも喫茶店のマスターにもなれなかった

第3回 ラテンアメリカ文学概説——カルペンティエール『失われた足跡』を読みながら①

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