バナー柳原_世界文学の体温ラテンアメリカ文学

第2回 古本屋のオヤジにも喫茶店のマスターにもなれなかった(柳原孝敦)

Ⅲ 大学進学、出会い 島田雅彦と伊井直行の間で

 私の大学進学を語るのに欠かせない名は、ラテンアメリカの作家のそれではない。島田雅彦と伊井直行、ふたりの日本人作家である。だが、ここでも一旦、少し遠い起源に遡ろう。

 読書によって3年間をやり過ごした私は、既に述べたように、さらにリハビリと呼ぶしかない2年間を過ごすことになる。その間はアルバイトに励んだ。上京前には実家近くでサトウキビ刈りの手伝い、上京後は喫茶店や回転寿司、コンビニエンスストア店員らの接客業から本の梱包などの孤独で体力の要る作業、英会話教材のセールスなどをした。

 そのころの私は、大学進学のことなどは忘れ、ゆくゆくは古本屋のオヤジか喫茶店のマスターにでもなりたいなどとのんきなことを考えていた。客の相手をしなくていい膨大な時間に本を読む生活が送れるのなら、このふたつ以上のすてきな商売はありえないのではあるまいか。そんなふうに思っていたのだ。つまり、読書の習慣も失わなかったということだ。ゲーテの『ファウスト』やドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』、サルトルの『存在と無』などの大作を読むことができたのはこの時期の収穫だ。

 新刊をたくさん買うような経済的余裕はなかったので、特定の作品を繰り返し読むことも多かった。たとえば庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』に始まる四部作はこの時期、再読、再々読した。東大入試が中止になった年(1969)の、学校群導入以前の日比谷高校の3年生を語り手とする小説で、私は自分が卒業したばかりの高校と、かつて東大合格者数最多を誇った都立高校との差に愕然とし、その時代のその空気に憧れた。そういう憧れの高校のあり方を愛しつつも批判もする語り手の考察に救われる思いがした。村上春樹は上京の際に手にしていた唯一の作家で、まだ3作しかなかった彼の作品も何度も読んだ。

 村上春樹と言えば、当時住んでいた国分寺のアパートの近くにあったカフェで、ある日、何度目かの『1973年のピンボール』を読んでいたところ、マスターが声をかけてきた。「私、高校時代にその人のジャズ喫茶によく行っていたんですよ」。『羊をめぐる冒険』も出た後で、既に本好きの間での評判は定着しつつあった村上春樹ではあるが、私は彼がデビュー前にジャズ喫茶(ジャズバー)〈ピーターキャット〉を経営していたことは知らなかった。ましてやその1号店が国分寺(シンガーソングライター中山ラビの店〈ほんやら洞〉のすぐ近く)にあったこと、その後千駄ヶ谷に移転、それから(神宮球場で野球を見た日に思い立って)小説家になったことなども、知らなかった。まだ若いそのマスターの話は、したがって、新鮮だった。「春樹さん」は無愛想とは言わないまでもどちらかというと寡黙で、妻の「陽子さん」が自分たちにやさしくしてくれた、などという話を聞きながら、私は小説というものが生身の人間によって書かれたものであるという当たり前の事実を、このとき初めて実感したのではなかろうか。

 あるいは、いつ胚胎したのかわからない「古本屋のオヤジか喫茶店のマスター」になるという私の夢物語にもこのエピソードは影響しているかもしれない。それとも、そんな思いを諦めるのに役立ったのだろうか? 喫茶店のマスターになったからといって、その後、村上春樹のように小説家に転身しようという野心があったわけではない。日々のアルバイトで客商売の厳しさを実感するにつけ、私にそれが続けられるかどうかは、はなはだ疑わしい。さりとて代わって客相手をしてくれる「陽子さん」のような共同経営者もいない。何につけても、実現するには地に足のついた計画が必要だ。そんな実現可能な計画を立てられないならば、ともかく大学に行って将来を見つめ直すのもいい、との思いも強くするようになった。猶予期間としての大学という消極思考を得てはじめて私は積極的に大学に行く気になったのだ。

 アルバイトと読書の暮らしが2年目に突入した1983年、そんな大学への消極的/積極的志向が芽吹きはじめたころ、デビューを目の当たりにしたふたりの作家が伊井直行(『草のかんむり』)と島田雅彦(『優しいサヨクのための嬉遊曲』)だった。掲載されたそれぞれの雑誌『群像』と『海燕』を、当時住んでいたアパート近くの書店で交互に手に取ったのを覚えている。いずれも6月号だった。伊井作品はその年の群像新人文学賞受賞作で、村上春樹と村上龍、高橋三千綱などのなじみの作家を輩出した賞だったので気になった。『海燕』は創刊間もない雑誌で、賞ではなく自ら発掘した新人の島田を大々的に売り出す広告垂れ幕がついていた。東京外国語大学ロシア語学科の学生だとのことだった。島田自身が投影されているに違いない作品内の主人公も大学生だった。一方で伊井作品の主人公は医学部を目ざす大学受験浪人だった。2冊とも買うのは貧乏フリーターには気が引けたので、立ち読みして読み比べ、主人公の立場が近い伊井作品の載った『群像』を買った。つまり私は、1983年5月のその日、島田雅彦によって東京外国語大学の名を印象づけられ、物語内容としては伊井直行の紡ぐものに惹かれた。それが私の進路を決定したのだと思う。

 伊井直行の『草のかんむり』は予備校に通う主人公が魔法をかけられて蛙になり、途方に暮れて放浪を重ねた末に、その魔法使いの残した特殊な形式の文書を読むことによって魔法が解けるという話だ。この「特殊な形式の文書」というのは、多分にガルシア=マルケス『百年の孤独』をヒントにしている。『百年の孤独』はジプシーのメルキアデスが書き残した羊皮紙の文書を、ブエンディア家の最後の人物が解読する話でもあるのだが、その羊皮紙文書をもっと複雑にしたような文書が『草のかんむり』のそれだ。また、魔法使いが主人公を蛙に変身させる気になったのは、主人公の曾祖父にあたる友人がある日、数枚の粘土板を見つけ、そこに世界と宇宙のすべてが書かれているのを読み取ったからだ。同じ粘土板を見ても何も読み取れなかった彼は、友人への嫉妬から長生きし、魔法を身につけ、予備校教師になりすまし、出会った友人の曾孫に魔法をかけたのだ。問題の粘土板に誰かが「すべて」を読み取るというエピソードは、まるでホルヘ・ルイス・ボルヘスの短篇「アレフ」のようでもある。

 実際には『草のかんむり』が『百年の孤独』を参照していることを知るのは、もっと後になってからのことだ。新人賞の審査委員たちは誰もその可能性を口にしていなかった。前年にはガルシア=マルケスがノーベル文学賞を受賞しているというのに、読んでいなかったようだ。選評ではせいぜい変身譚ということでカフカの名が挙がり、文体の面で村上春樹が示唆されていたくらいだった。私が『海燕』を買わずに『群像』を買った理由は、主人公の立場の近さもあるだろうが、そうとは知らないままガルシア=マルケスやボルヘスらに近い世界を描いた作品に惹かれたからでもあるかもしれない。いささか運命論的にそう言いたくもなる。

 かくして私は島田雅彦の在学していた東京外国語大学の、伊井直行に影響を与えたガルシア=マルケスらに出会う公算の高いスペイン語学科に進学した。ロシア語学科は選択肢に入っていなかった。しかし、外語大入学後、私は結局、島田雅彦(的なもの)に捕まってしまう。そしてその結果、ラテンアメリカ文学と出会う。

 入学後、気づいたら中南米研究会というサークルに入っていた。ある日、友人に誘われて飲み会に行ったら、それがそのサークルの新歓コンパだった。実体のないサークルに思われたので、名前だけ登録した。後日、友人が言うには、このサークルは民青が主体なので、我々のペースで活動を活性化して民青の手からサークルを奪回したい、とのことだった。民青というのは民主青年同盟、つまり共産党の下部組織で、既に学生運動は下火になっていた私たちの学生時代、私の大学でおそらく唯一活動していた学生団体だった。セクト闘争には興味はなかったけれども、友人の計画を聞いているうちにこれは『優しいサヨクのための嬉遊曲』ではないかと思いついた。島田雅彦のデビュー作の主人公が身を寄せるサークルのモデルとなったのは、ソ連東欧研究会という実在のものだ。中南米研究会はソ連東欧研の中南米版だ。地域研究系の勉強会サークルのひとつだ。面白いじゃないか。やってみよう。私はそう返事をしたのだった。

 ガリ版刷りの会報を発行し、先生や学外の論者などにお願いして講演会を開き、映画の上映会も試み、読書会を開催し、最後には音楽セクションも作ってフォルクローレの音楽祭に参加したりもした。学園祭でタコス屋を開いたこともあった。ファッションとして活動。島田の小説にはそんな表現があったと記憶する。そんな活動を私たちは展開した。

 会報には毎号のように書評を載せた。書評するために読書会もやった。書評で印象に残っているのはリカルド・ポサス/清水透『コーラを聖なる水に変えた人々』(現代企画室、1984)についてのものだった。リカルド・ポサスによるメキシコ南部マヤの先住民の古典的民俗誌『フアン・ペレス・ホローテ』(1952)の翻訳と、清水がそのフアンの息子ロレンソに対して行ったインタビューからなるこの本は、実にユニークで存在意義は大きいと思うのだが、大学1年の私にそうした学問的意義がわかっていたかどうかは疑問だ。書評の質はともあれ、サークルの活動を手伝ってくれていた大学院生がこれを著訳者自身に見せたのだそうだ。著訳者というのは清水透。もちろん、私も授業を受けていた先生であった。彼にとっても初めての著書を学部の1年生が書評したというのは、嬉しい事実だったのだろう。その後35年の歳月が流れた今でも、清水先生は私を誰かに紹介するときに、あれを最初に書評してくれた学生と説明する。

 読書会で楽しく思い出すのはアレホ・カルペンティエール『失われた足跡』(1953)のそれだ。大学に入った年の年末、大学生協の本屋に並んだのがカルペンティエールの遺作『ハープと影』(1979)の翻訳(新潮社、1984)だった。訳者は牛島信明。やはり私の先生だ。いかにも文学青年然としたその言動に触れていたので、どういうものを訳すのだろうと興味を抱き、読んでみた。『ハープと影』はコロンブスを福者(聖者に準じる位階)に列するために開かれた審判の記録で、コロンブスや彼が読んでいたセネカ、コロンブスの批判者となったラス・カサス神父などの異なる時代と場所を生きた人々が19世紀のヴァチカンに勢揃いするというその発想は面白いのだが、衒学的な引用に惑わされ、読むのに骨が折れた。これはかなりな覚悟をして取りかからねばと思い、翌年、2作目に読むカルペンティエール作品を同じ訳者の『失われた足跡』と定め、読書会の題材とした。『ハープと影』で得た難解との印象もあったし、私がその読書会の主催者でもあったので、普段のとき以上に入念に準備をした。作家や音楽家、芸術作品への言及の多いこの小説の、それらの言及・引用の意味や意図を説明するために訳注に書いてある以上の注釈を作って臨んだ。言ってみれば、文学作品に注釈をつけるという研究者としての基礎の作業を、このときはじめて実践したのだ。高校時代に身につけリハビリ期に固めた読書の習慣の新たな局面の始まりだった。

 結局私は『失われた足跡』を卒業論文の題材に選ぶことになる。そのときにはイェール大学のロベルト・ゴンサレス=エチェバリーアによる校注本を大いに活用した。当然のことながら、それは私があの読書会で準備した注などよりはるかに網羅的で詳細、役に立つものだった。こうした先人の仕事を手がかりに私は、読むことやそれに先立つ手続きなどを学んでいった。

 この連載は、そういう私自身の読書遍歴をたどることから始めてみた。ラテンアメリカ文学について詳細に紹介するはずの次章では、『失われた足跡』のテクストを読みつつ、それと他のテクストを結びつけてラテンアメリカ文学の歴史や特徴へと話を広げることにしたい。

 ところで、1970年代後半から80年代前半にかけての10年ほどの期間は、日本におけるラテンアメリカ文学の受容のピークだった。国書刊行会の〈ラテンアメリカ文学叢書〉の配本は1977年から80年にかけてのことだった。集英社は私が高校時代に読んでいた〈ベラージュ〉のシリーズの世界文学全集と平行してほぼ同時期(76-79年)、〈世界の文学〉シリーズ全38巻を刊行したが、前者よりも現代作家たちを重点的に網羅したそのシリーズにはボルヘスやコルタサルなどを収めていた。その一部を編み直し、新訳作品を加えて〈ラテンアメリカの文学〉を配本したのが83年から翌年にかけてだった。ラテンアメリカという単位でくくることはしなかったけれども、新潮社もこの時期ガルシア=マルケスやバルガス=リョサらの作品を次々と刊行していた。1960年代に〈ブーム〉を巻き起こして世界文学地図に主要な場を占めるようになったラテンアメリカ文学の作品の翻訳がこの時代に多数出揃ったのだ。後に(1990-96年)現代企画室の〈ラテンアメリカ文学選集〉がラインナップに加わることになった。このシリーズにはより新しい作家たちも加わっているので、これは新たな展開とみなしていいだろう。ともかく私が大学に進学するころには、20世紀ラテンアメリカ文学のいわば古典ともいうべき多くの翻訳がそろっていたのだ。鹿児島市の高校生だったころはそんな流れに気づくことさえなかったが、上京し、ましてやスペイン語学科の学生となった私がこれらの作品に出会うのは必然の成り行きだったのだろう。

 当時はいわゆる構造主義以後の現代思想を消化した大学人や批評家も注目を浴びていた。「ニューアカデミズム」などというその呼び名を好きにはなれなかったとはいえ、そうした人たちを導きの糸として、ミシェル・フーコーやジル・ドゥルーズといった思想家たちの著作におそるおそる手を伸ばしたりもした。本来なら哲学の分野に分類されるかもしれないこうした書き手たちすらも、「理論」の名の下に文学研究の分野に取り入れられている状況も知った。私はたとえば、上に挙げた『コーラを聖なる水に変えた人々』に限らず、文学作品以外からもラテンアメリカに近づいていったのであり、文学はまだひとつの選択肢に過ぎないと思っていたのだが、結局は文学研究という立場をとるようになったのは、そうした流れも考慮に入れてのことだったのかもしれない。詩や小説ばかりでなく、思想書も、人文学、学芸全般が「理論」であり、文学研究ならば、それでいいではないかとの立場だ。

 映画や演劇なども、もちろん、興味の対象である。スペイン語圏の具体的な文化・芸術(学芸)の事例に目が向くようになるのは、その地域の映画や演劇などとの出会いもあったからに違いない。そのきっかけとなったのは、主に学園祭だった。

 東京外国語大学の学園祭は外語祭という。これのふたつの大きな柱が料理店と語劇だ。料理店というのは文字通りだ。スペイン語学科の学生たち(1年生であることが多い)がスペイン料理の店を出す。本当はスペインに限る必要はない。メキシコ料理でもアルゼンチン料理でもいいし、今ならペルー料理などにもしたいところだが、少なくとも私たちの年度はスペイン料理であった。そのことに目くじらを立てるのは今はよそう。

 語劇とは外国語劇だ。スペイン語学科の学生はスペイン語で劇を上演する。かつては「語劇祭」と呼ばれたこともあるのだから、これが外語祭の最大の柱なのだ。全学科が劇を上演できるようにという配慮から外語祭は5日間にわたって行われる。主に2年生が中心に作るのだが、もちろん、他の学年がかかわってもかまわない。私は結局、4年間、何らかの役割でかかわった。1年生の時にはアンドリュー・ロイド=ウェバーのミュージカル『エビータ』のスペイン語版の舞台監督を務め、舞台袖から役者や大道具係にキューを出した。2年になるとフェデリコ・ガルシア=ロルカの『血の婚礼』を演出した。役割の性質から、この2作品の歌詞と台詞をほとんどすべて暗記したのはスペイン語の習得に多いに役立ったかもしれない。そして何より、『血の婚礼』の演出プランを立て、他のスタッフやキャストに説明するためにテクストを精読したことは、『失われた足跡』の読書会と並んで私に精読の楽しみを教える出来事となった。

 語劇の演出を買って出たという点でも、私は島田雅彦の後を追ったと言えそうだ。

 語劇の演目は、もちろん、学生が決める。そのために少なからぬ数の戯曲を読むことになったのも、スペイン語圏の文化に親しむ契機となった。1年の時、演目を決める際にルイス・ブニュエルの映画『皆殺しの天使』(1962)を推薦した先輩がいた。その作品は未見だったけれども、なるほど、映画を脚色するという手があるのかと思い立ち、スペイン語圏の映画にも注意が向いた。すると、不思議と印象的な映画がたくさん入ってきた。とりわけ2年生になった1985年には、まずアントニオ・ガデスが踊りカルロス・サウラが記録した『血の婚礼』(1981)が公開された。ブニュエルのメキシコ時代の回顧上映が行われ、『皆殺しの天使』のみならず何作品かを観ることができた。そしてなんといっても、ビクトル・エリセの『エル・スール』(1983)と『ミツバチのささやき』(1973)が紹介された。運命と呼びたくなるほどの絶妙のタイミングだったし、何よりも魅力的な映画の数々だった。なぜフィルムスタディーズに、あるいは特にエリセ研究に向かわなかったのか、自分でも不思議なほどにこれらの映画に魅了された。

 授業では、文学作品が教材としての力を発揮した。ベニート・ペレス=ガルドス(スペイン、1843-1920)とホセ・マリア・アルゲーダス(ペルー、1911-1969)の短篇を1年の購読の時間に読んだ。2年ではフアン・ルルフォ(メキシコ、1917-1986)の『ペドロ・パラモ』(1955)を読んだ。3年次以降の授業では作者不詳『ラサリーリョ・デ・トルメスの生涯』(16世紀)を、それにペレス=ガルドスやミゲル・デリーベス(スペイン、1920-2010)、フランシスコ・ガルシア=パボン(スペイン、1919-1989)らの長篇小説を読んだ。レオポルド・ルゴーネス(アルゼンチン、1874-1938)の短篇「イスール」やルルフォ『燃える平原』(1953)所収のいくつかの短篇も読んだ。私のスペイン語の読解力はこれらの作家・作品に負うところが大なのである。

 このような活動を通じて私はスペイン語圏の文学(学芸)になじむようになり、進学を決意した。同期の友人で周囲の人間にあまり面白くもないあだ名をつけて楽しんでいる人物がいた。彼は私のことを「亜熱帯から来た男」と呼んだものだ。私が卒業論文の題材をカルペンティエールに決めたと言ったときには、「やはり青い空、青い海、果てしなく続くサトウキビ畑なんて風景に回帰するわけですな」(こういう口調であった)と解説をつけていた。作家がごく初期に書いた『エクエ・ヤンバ・オー』(1933)は確かにサトウキビ農園を舞台としているが、私が扱うのは『失われた足跡』だった。そこにはサトウキビ農園は出てこない。それはむしろ密林と大河の世界、それに大都会ニューヨークを描いた小説だった。なるほど、奄美は「日本のジャマイカ」などと呼ばれ、私の町の町花はハイビスカス(スペイン語ではハマイカ、つまりジャマイカ)ではある。ジャマイカの隣はキューバだ。キューバ人のカルペンティエールと私は原風景を共有しているかもしれない。けれども、そうした理由からカルペンティエールを選んだのではない。私はたぶん、中南米研究会での読書会で、ひとつひとつの人名や作品名に注釈を加えながらこの作品を読み進めていったあの楽しみが忘れられなくて、そこへ回帰したのだ。そしてそうした読みの喜びは、高校時代の寮での学習時間をカムフラージュするための、高校から課された大量の宿題からの逃避としての読書の楽しみを積み重ねた結果、発見されたものなのだ。

 つまり私がスペイン語圏の文学を専攻するようになったのは、高校の理数科という学科に入ったからなのである。

Ⅳ 大学院進学、留学 サルトルから遠く離れてレイェスへ

 大学院進学を考えるようになったのにはサルトルが関係しているに違いない。彼の戦中日記『奇妙な戦争』の翻訳が出たのは1985年のことだった(海老坂武他訳、人文書院)。それを読み、彼が一冊のノートに何もかもを書きつけていたことを知った。それは日記であり草稿や読書記録でもあった。こうしたノートの使い方が面白いと思って自分でもやってみようと決意、大判のノートを買ってきてつけ始めたのがその年の12月20日。ちょうど早めのクリスマス・プレゼントにと書き心地のいいローラー(水性ボールペン)をいただいたので、以後、この2点セットを肌身離さず持ち歩き、何でも書きつけていった。それは出席したすべての講義の記録でもあったし、読書の計画や記録、映画演劇などの鑑賞記録でもあった。レポートなどの進捗状況を記した業務日誌の役割も果たせば、通常の日記にもなった。買い物メモすらもそこに書きつけた。高校卒業と同時に日記を書く習慣を失っていたのだが、それを新たな形で取り戻したと言ってよいだろう。サークルの会報に書評を書いていたことと相俟って、書くことの喜びに目覚めていった私は、自分の好きな本を読むだけでなく、それについて何か書くことを仕事にしてみたいと思うようになったようだ。翌年にはワードプロセッサを月賦で買い、気分はもう立派な物書きだった。

 ノートに何でも書きつけていたはずなのに、不思議と進学を決意した瞬間の記述は残っていない。それゆえ、どの時点でそれを決意したかはっきりとは覚えていないのだが、卒業論文の相談に行ったときにはその考えを抱いていたことは間違いない。サルトル全集のどこかの巻に入っていたリーフレットで、大江健三郎が現代作家(つまりサルトル)で卒論を書いたので学者になることを断念したと書いていた。それを読んだ私は進学を考えるなら古典作家を扱わなければならないのだろうとの思いこみを抱いていた。ペレス=ガルドスは授業で読んで面白いと思ったし、大物だから研究対象にふさわしいだろうとも思った。そんな思いを抱えて牛島信明先生の研究室を訪ねたところ、留守だった。約束を取りつけていなかったのだからしかたがない。帰ろうとすると廊下で桑名一博先生と擦れ違った。部屋に招き入れられ、そうした思いを語った。桑名先生はあっさりと私の思い込みを打ち消した。古典だけが文学研究の対象ではない。今ならラテンアメリカの現代作家たちの方が面白かろうというのだ。そこで思い出したのがカルペンティエールだった。そういえば、あれだけ楽しい読書会を開いたのに、『失われた足跡』に関しては書評のひとつも書いていないではないか。というわけで『失われた足跡』を卒業論文の題目に選んだ。

 ちなみに、サルトルの名を挙げることからこの節を始めたので付け加えておくと、カルペンティエールはサルトルより半年ほど早く生まれ、10日ほど遅く亡くなった。日本に紹介された時期が違うので私たちは時代の遠近法を見失いがちだが、完全な同時代人なのだ。このことは忘れてはならないし、次章で改めて論じる予定だ。加えて言うなら、私は原風景が同じだからカルペンティエールを気に入ったというよりは、少なくとも当初は、そのサルトリアン的な態度のゆえに共感を抱いたのだった。

 実は私は、大学院の入試に失敗してしまい、留年することになる。どうやら試験に弱いようだ(そういえば後年、運転免許の試験にも一度落ちたのだった)。高校から大学院までずっと入学金も授業料も免除を受けたのだが、留年した年ばかりは奨学金も切れて授業料を払わねばならず、それまでにも増してアルバイトに精を出すしかなかった。それはいわば失われた1年間だったので、この時期については多くは語るまい。翌年には無事、東京外国語大学大学院外国語学研究科修士課程ロマンス系言語専攻に進学した。

 大学院進学後、修士論文でもカルペンティエールを扱った。卒業論文では、『失われた足跡』英訳版でJ・B・プリーストリーがこの作品を〈象徴行為〉Symbolic Action と呼んだのを受け、それはどんなものなのかと、解釈の試みをしたのだが、修士論文を準備するころには、それがアレゴリーのことなのだと気づき、『アレゴリー作家カルペンティエール』という作家論を仕上げた。ロマン主義者たちがアレゴリーを貶め、代わって「象徴」の語を多用して広めた結果、この語があらゆる比喩表現と、さらにはアレゴリーのことすらも指すのに使われるようになった経緯をヴァルター・ベンヤミンやポール・ド・マンらを引用して確認し、20世紀の後半はアレゴリーが復活した時期であると概観した後、カルペンティエールの作品全般に見られるアレゴリーへの志向を記述した。理論的な方向付けにおいては恥じることのないものだとは思うが、各論においては忘れてしまいたい論文である。

 私が師事した牛島信明先生は、時折、冗談混じりに極論を述べる方だったのだが、「学問するのに本を読む必要はありません、本のタイトルさえ知っていればいいんです」というのと並んで私がはっきり記憶している先生の極論が「我々、外国語文学研究者で留学経験のない者は人間とはみなされません」というものだった。大学進学前に2年、大学院進学前に1年の合計3年を無駄に過ごしてきたので、それを埋め合わせるように最短の2年で修士論文を書き上げつつあった(周囲の多くは3年かそれ以上の時間をかけて書いていた)私は、人間とみなされるために留学のことを考えなければならなかった。

 比較的手軽に行けそうなのがメキシコだった。メキシコは日本との間に取り決めた「日墨交流プログラム」(1971年発足。現・日墨戦略的グローバル・パートナーシップ研修)によって毎年、数十名の学生や社会人を奨学金を与えて派遣している。簡単な試験と面接に合格すれば煩雑な手続きもほとんど必要なしにメキシコに渡ることができる。周囲には学部在学中にこの奨学金を得て留学した者も何人かいた。少なからぬ数のラテンアメリカ研究者が恩恵にあずかっている制度だ。修士論文の執筆をもってカルペンティエール研究には一応の区切りをつけるつもりでいたので、メキシコの碩学アルフォンソ・レイェス(1889-1959)の研究にとりかかる旨の研究計画を仕上げ、応募して合格、修士課程を修了した直後の1991年3月末にメキシコに渡った。

 メキシコ国立自治大学(通称UNAM)文献学研究所文学研究センターというところに所属してレイェス研究に従事することになった。当時のセンター長はスペイン古典学の泰斗マルギット・フレンクで、彼女は私の研究計画書のスペイン語を優しく添削してくれて、アドヴァイザーとしてフェルナンド・クリエルを紹介した。レイェスについての博士論文を準備中だった20世紀メキシコ文学の研究者クリエルは、アルフォンソ・レイェスの個人文書館兼記念館カピーリャ・アルフォンシーナCapilla Alfonsinaの館長(当時)にして作家の孫娘アリシア・レイェスに私を引き合わせ、私が毎週そこに通う手はずを整えてくれた。

 レイェス記念館で毎週金曜日の午前10時からの3、4時間を、私は作家の手紙などを読みながら過ごした。長篇小説を書いていないし、日本ではあまりまとまって紹介されていないのが残念だが、アルフォンソ・レイェスはメキシコでは現代文学の父というほどの存在で、彼自身の著作(全26巻の全集とその他様々なアンソロジー)のみならず、関連書籍も多数出版されている。作家仲間との往復書簡集も10冊以上ある。レイェス研究家にとっては、まだ出版されていない誰かとの往復書簡に注釈をつけ、解説を付して出版するのがひとつの業績となり得る。手紙ばかり書いているサルトルに向かって、友人のギーユは未来の文学事典がサルトルのことを「すぐれた書簡文作者」と定義するだろうと冗談に言ったのだが、サルトルをしのぐ「書簡文作者」こそがアルフォンソ・レイェスなのだ。

 レイェスは1920年代の一時期、マドリードの歴史学研究所文献学部門に在籍し、当時そこが編纂していた〈カスティーヤ語古典選集〉の編集にかかわっていた。研究所を率いていたラモン・メネンデス=ピダル(1869-1968)はスペインにおける実証主義的文献学を大成した人物で、その下に詩人としてフェデリコ・ガルシア=ロルカ(1898-1936)らと同じ〈1927年の世代〉に属してもいたダマソ・アロンソ(1898-1990)、後にレコンキスタ以前のイベリア半島を、暗黒の時代ではなく、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教の三文化が共存した豊穣の時代として捉え直した『スペイン史の現実』(1954)を書く歴史家アメリコ・カストロ(1885-1972)、ソシュール『一般言語学講義』の翻訳者にしてドイツの文体論らを採り入れて独自の言語研究を追求したアマド・アロンソ(1896-1952)らが集っていた。スペイン文献学のいわば黄金期だ。しかも彼らの多くは後に南北アメリカの国々に移住し、その地のスペイン学を活性化した人々でもある。こうした人々とレイェスとの手紙のやりとりは出版されていないけれども、私には興味があったし、読んでみるととても面白かった。文献学的発見の喜び、移住や亡命の苦しみの中でも知に従事する快楽、知的刺激などに満ちており、手紙を読みながらそれを共有することは、時折、UNAMで教える先生たちにお願いして覗かせてもらう大学の授業などにもまして私を鼓舞した。

 こうした作業は楽しかったけれども、レイェスの著作は膨大に過ぎ、なかなか研究計画通りの成果は上げられないでいたところに、奨学金の期限が迫ってきた。記憶が正しければ、申請すれば数ヶ月は(1年でも?)延長することができたはずだ。あるいはメキシコ外務省の奨学金などもあるから、それに切り替えてメキシコで正規の博士課程に進学するという手もあった。その他の国、たとえばアメリカ合衆国の大学院に進む手もあった。が、いずれの場合も手続きに手間取りそうだし、準備も不十分だった。修士課程しかなかった外語大の大学院を修了した者たちは大抵、修士のまま大学の非常勤講師としてスペイン語を教え、キャリアを積んで専任教員を目指す人が多かったから、そういうモデルにしたがってもよかった。ところが、ちょうどそんな時期に、東京外国語大学の大学院に博士課程が新設されるとの情報を得た。そこを目指すのが妥当だろうし、一期生ならば記念にはなるだろうとの不純な意識も働き、1年で帰国して博士課程に進学することにした。

 メキシコ滞在中に書き終えることのできなかった論文は結局、博士課程2年時に『ラテンアメリカ研究年報』に発表することになる。レイェスがヨーロッパ滞在中にアメリカ(ラテンアメリカ)に対する差別的言辞と対峙することになり、一方でナショナリズムの盛り上がりの時期にあったメキシコの若手たちからは親ヨーロッパ的過ぎると批難された事実を確認したうえで、レイェスを、植民地言説の存在に気づくとともに、それを批判した作家だったと結論づけるものだ。そしてまた、いわゆるポストコロニアル批評というものが植民地言説の批評によって成り立つものとするならば、そうした潮流はメキシコ(やラテンアメリカ)研究では1940年代に芽吹いたことであり、レイェスがそれの中心だとか先駆者だとまでは言えないにしても、少なくとも彼はその流れの大きな一部だったとも主張した。

 これが私の初めての学術論文であるのだから、私はポストコロニアル批評の文脈でラテンアメリカ文学を論じることから研究者としてのキャリアをスタートさせたと言っていいだろう。つまり、私を「亜熱帯から来た男」と呼んだあの学生時代の友人が位置づけたように奄美の原風景に回帰した結果としてこの分野に進んだのではない。そうではなくて、遠い奄美や鹿児島での少年時代にモヤモヤと感じた植民地言説への反発を、中学の英語教師や高校の同級生の言辞に感じた反発を、ラテンアメリカ文学に出会うことによってやっと言語化できるようになったと言うべきなのだろう。少年時代があって今があるのではなく、今があって少年時代に意味が与えられたのだ。こう言うといささかサルトル的に過ぎるだろうか? 

プロフィール

柳原プロフィール写真_丸

柳原孝敦(やなぎはら・たかあつ)
1963年、鹿児島県名瀬市(現・奄美市)生まれ。東京外国語大学大学院博士後期課程満期退学。博士(文学)。東京大学教授。著書に『ラテンアメリカ主義のレトリック』、『劇場を世界に——外国語劇の歴史と挑戦』共編著(以上、エディマン/新宿書房)、『映画に学ぶスペイン語』(東洋書店)。訳書にアレホ・カルペンティエール『春の祭典』(国書刊行会)、フィデル・カストロ『少年フィデル』、『チェ・ゲバラの記憶』監訳(トランスワールドジャパン)、ロベルト・ボラーニョ『野生の探偵たち』共訳、カルロス・バルマセーダ『ブエノスアイレス食堂』、(以上、白水社)、セサル・アイラ『文学会議』(新潮社)、フアン・ガブリエル・バスケス『物が落ちる音』(松籟社)ほか。近刊に『テクストとしての都市 メキシコDF』(東京外国語大学出版会、10月刊行予定)。

「亜熱帯から来た男」過去の記事

第1回 ラテンアメリカ文学との出会い

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