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【素面のダブリン市民】第2回 ダブリンの住宅事情(北村紗衣)

 アイルランドでは6月7日にEU議会の選挙があるので、今ダブリンは選挙のポスターがそこらじゅうに貼られています。今回のEU選挙では、これまでと違う点がひとつあります。それはホームレスの人が投票できるようになったということです。

 日本も含めてたいていの国では、住所が無い人は有権者として登録をすることができず、さまざまな社会保障サービスからも疎外されてしまいます。ところが2022年にアイルランドの法律が改正され、住所不定の人でもホームレスチャリティ団体を住所として投票のための登録ができるようになりました。6月7日のEU選挙は、この法改正以降に行われる大きな議会選挙としては初めてのものになります。住所がなくても投票ができるというのは困窮している人に力を与える施策なので、非常に意義のあるものだと思います。

最悪の住宅事情
 このような法改正が行われた理由のひとつとして、アイルランドの住宅事情は最悪レベルだということがあげられます。アイルランドの人口は2023年の推計で528万人程度ですが、2024年のホームレス人口は1万4000人ほどだと言われており、ここ10年で4倍くらい増えました。このうち、子どもが4000人を越えています。ホームレス統計というのは各国でまったく基準が違うので単純な地域間比較ができないのですが、一応日本の統計を見てみると、日本の人口が2023年時点で推定1億2400万人くらいである一方、2024年のホームレス人口は3000人に満たないということです(日本は何を「ホームレス」とするかの範囲がだいぶ狭いので、比較して何かわかるのかな…という気もしますが)。

 アイルランドではまともな住宅が明らかに不足しています。家賃が高すぎるという理由で海外に移住する人もいるくらいです。EU内では人の移動が多いので他のヨーロッパの国に引っ越すという選択肢が一応ありますし、アイルランド人の場合は長きにわたって移民を送り出す国だったので、イギリスの旧植民地で英語が使えるオーストラリアとかニュージーランドとかに親戚や知り合いがいる人も多く、そうした地域に移住する人もいます。地方から都市部の大学に進学した学生が住むところを見つけられないのも問題になっています。

 英語が話せるアイルランド出身者ですらこうなのですから、外国から移住してきた人はさらに家を見つけるのが困難です。2022年には留学生が部屋を借りられずに車などで寝ているというのがニュースになりました。留学生は通常、さまざまな手続き上の必要性からして住所がないとまずいはずで、学校は留学生に住むところを紹介する責任があるので、これは大問題です。また、アイルランドには難民などが一時的に住む仮住居であるダイレクトプロヴィジョンという施設があるのですが、住宅難のせいで難民がダイレクトプロヴィジョンから出られず、長期居住が想定されていない家に多数の人が押し込められており、長年にわたって問題視されてきました。政府はこのシステムをやめると言っていますが、なかなか対策はすすんでいません。  

住宅事情を扱った映画や本、博物館
 住宅事情がこれだけ悪いと、住宅問題を扱った映画や本も出るようになります。2020年に『サンドラの小さな家』という映画が製作されましたが、これはヒロインであるダブリンに住むサンドラが夫から暴力を受け、子ども2人と逃げ出して住むところを探すものの、公的支援を受けてもまったく家が見つからず、自分の手で家を建てることを決意する…という物語です。暴力的な夫がひどい嫌がらせをしてくるなど、いろいろなトラブルが起こるのですが、これはダブリンの住宅事情がいかに悪いか、そして家庭内暴力の被害者や片親家庭などがそのしわ寄せでどれほど苦しんでいるかをリアルに描いた作品です。

 住宅問題の専門家であるローリー・ハーンはアイルランドの住宅不足についてさまざまな本や記事を刊行してきましたが、2022年にハーパーコリンズ・アイルランドから刊行したGaffs: Why No One Can Get a House, and What We Can Do About It (『すみか――なぜ誰も家を手に入れられないのか、そしてこれについて何ができるのか』[未邦訳])はアイルランド国内で大変な評判を呼びました。この本はアイルランドの住宅事情がいかに悲惨な状況であり、そのせいで若者や障害のある人、片親家庭、家庭内暴力の被害者などの経済的に余裕のない人々がしわ寄せを受けているか、政府がそれに対してどれほど無策無能か、拝金主義的な住宅市場がいかに市民生活をメチャクチャにするかを詳細に書いた、正直読んでいて気の滅入るような本です。

 この統計を見ると、2020年から2021年くらいまでで急にアイルランドのホームレス人口が減っていることがわかると思います。ハーンによると、これは新型コロナウイルス感染症の流行により、緊急的な措置として立ち退き及び家賃の値上げを禁止したためだそうです。立ち退きが発生すると市民が家から外に出るようになり、感染症が拡大するので、これはまあ当たり前の措置です。ハーンは感染症の大流行のせいで、皮肉にもアイルランドの庶民が初めて路頭に迷う不安なく暮らせるようになったことを記しています(Rory Hearne, Gaffs: Why No One Can Get a House, and What We Can Do About It, New Updated ed., HaperCollins Ireland, 2023, p. 97)。ハーンは現在EU議会選に立候補しており、新型コロナウイルス感染症流行時と同じレベルの住宅問題に対する対応を今も行うべきだと主張しています。アイルランドの選挙では一般的に住宅問題は有権者が最も関心を持っている分野のひとつです。

 英語では家主にも地主にもlandlordという言葉を使います。アイルランドはイングランド人の不在地主(absentee landlord)による収奪に苦しんできたという歴史的経緯がある一方、今は住宅に投資をする企業が不在家主となって家賃のぼったくりで市民を苦しめている状態です。ハーンの本を読むと、アイルランドはイギリスの植民地だった時代から既に住宅難で、歴史的に何度も住宅問題で失策を繰り返していることがよくわかります。

 私は最近、ヘンリエッタストリート14番地という歴史的建築物を見に行って来たのですが、この家は18世紀に建てられた時はエリート層が住むオシャレな住居だったものの、首都機能が完全にロンドンに移って以降はすっかり廃れて貧困層が住む家になり、19世紀から20世紀初め頃にはトイレもない家に1部屋14人ほどの人が住み、時には夜にホームレスの人が入ってきて廊下で寝ているような超過密状態になっていたそうです。あまりの混雑と不衛生さゆえに1970年代に立ち退きとなったそうで、現在はこの家と周辺の通りの波乱の歴史を紹介する博物館になっています。このように、博物館からもアイルランドの住宅問題の歴史をうかがうことができます。

ヘンリエッタストリート14番地、地下室の展示
撮影:北村紗衣

私の住宅事情
 そんなダブリンに引っ越した私ですが、当然住宅には悩まされることになりました。4月入居だと大学の寮には入れなかったので、とりあえずウェイティングリストに入れてもらって待つことにしました。運良くトリニティ・カレッジ・ダブリンのスタッフの個人的な紹介で、最大半年間だけ住めるところが見つかったのですが、ここは大学からバスで30分くらいかかるところにある家の中の1室で、キッチンやバスルームは当然家主と共用で月800ユーロ(13万円くらい)です。お風呂はなく、シャワーだけです。私がダブリンに来る前に住んでいた練馬のアパートは3部屋でもちろんお風呂とトイレもついて95,000円だったので、だいぶ高いですね。

 ちなみに私が学生時代にロンドンで住んでいた家はノッティング・ヒルにあり、月150ポンドでした。当時は1ポンドが130円を切っていたので今よりずっと暮らしやすかった上、半地下で条件が悪かったので破格の低価格でした。ただ、この家は途中から違法に居住している状態になってしまいました…というのも、ここはあまり広くなく、最大2名しか住めない面積の部屋だったのですが、家主の親戚が立ち退きをくらったということで急に引っ越してきて、しばらくしたら出て行くのかと思ったらそのまま私が退去するまで住んでいたので、家主の話では市の規定に違反した状態だったそうです(住んでいる間に国勢調査があったのですが、調査員を見たら逃げるように言われました)。ここは床からトイレが外れていたり(床にくっついていないので便座に座るとぐらぐら動きます)、半地下にナメクジが出たりしてあまりよろしくない環境ではあったのですが、私はそんなに気にしていませんでした。2019年に『パラサイト 半地下の家族』が公開された時は、あそこまでひどくはありませんがやっぱり半地下はどこの国も家賃が安くてショボいんだな…と思って懐かしく(?)見ていました。

 それに比べると現在住んでいるダブリンの家は完全に合法な住居なのでマシなほうですが、8月末にはこの家を出ないといけないため、次の家を探さなければなりません。海外在住者向け掲示板であるMixBのアイルランド版をチェックしてめぼしい貸し手に連絡をとっていたのですが、ある貸し手にメールしてみたところ、送られてきた家の内装の写真なるものがどうもきれいすぎてなんとなくあやしい感じでした。ダウンロードした写真をGoogleレンズで検索したところ、他の住宅サイトでロンドンにあるまったく別の貸間の写真として掲載されているものをちょっと加工しただけであることがわかりました。つまり詐欺だったわけです。住所じたいはダブリンに実在する住所だったので、ボロ屋をきれいな家だと偽って高めに貸すための粉飾だったのか、部屋じたいが存在しなくてデポジット(日本でいう敷金に近いもの)だけせしめる詐欺だったのかはわかりませんが、とにかく引っかからなくて良かったです。ダブリンの住宅には危険がいっぱいですね。

 その後大学の住居課に問い合わせたところ連絡が来て、思ったより早く、6月半ばくらいから大学内のスタッフ用アパートに入れることになりました。ただ、家賃がなんと月1450ユーロ(24万円くらい)…ですが、これでもダブリン中心部の住居ではかなり安いほうです。私は数年前からサバティカルにそなえて印税や原稿料などを別に貯金していたのですが、ダブリンの家賃だけで『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』その他の印税を貯金していた定期が吹っ飛びます。皆さん、私の家賃を助けるつもりで著書を買っていただけますと幸いです…

プロフィール
北村紗衣(きたむら・さえ)

北海道士別市出身。東京大学で学士号・修士号取得後、キングズ・カレッジ・ロンドンでPhDを取得。武蔵大学人文学部英語英米文化学科教授。専門はシェイクスピア・舞台芸術史・フェミニスト批評。
twitter:@Cristoforou
ブログ:Commentarius Saevus

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