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【試し読み】『ロシア文学の怪物たち』より松下隆志(「はじめに」)

 はじめに

誤解を恐れずに書くが、ロシア文学は危険だ。ロシアによるウクライナへの軍事侵攻によって現実に世界秩序が大きく揺れ動いている今日、それは劇薬ですらあるかもしれない。

「政治と文学」を切り離すことはもはや不可能だ。もちろんそれは、文学が政権の立場を代表しているか否かとかいった、そういう単純な話ではない。軍事侵攻の直後には、ボリス・アクーニン、リュドミラ・ウリツカヤ、ウラジーミル・ソローキンといった、世界的にも名の知られたロシアの作家たちが連帯して戦争反対を表明した。こうしたニュースは日本を含む欧米のメディアでも積極的に報じられたが、その一方で、同時期にロシア国内で「特別軍事作戦」を支持する声明に数百名もの作家が署名したことはあまり注目されていない。言論統制も日ましに厳しくなり、様々な理由から国内に残る作家の大半は沈黙を強いられているというのが現状だ。少なくとも、体制/反体制といった単純な二分法で今日のロシア文学の全体像を把握することができないのは明らかだろう。

軍事侵攻が開始された後、クラシック音楽界などを中心にロシア文化を「排除」する動きが見られたが、当然その波は文学にも及んでいる。とくに当事国のウクライナではロシア文学排斥の動きが活発で、当国教育省の発表によれば、ウクライナ(当時はロシア帝国領)出身のニコライ・ゴーゴリなど同国とゆかりの深い作家たちを除くロシア文学の古典が学校の教科書から除かれることが決まった。ただし、ゴーゴリの作品でも『死せる魂』(一八四二)や『外套』(一八四二)といった文学史的に重要な作品は含まれないとされ、ロシアとウクライナの間に明確な線を引くことが決して容易ではないことが見て取れる。

ウクライナの批評家タマーラ・フンドロワは、植民地化や帝国の過去を反省しようとしないロシア文学はプーチンの戦争に責任があると主張する。彼女によれば、ウクライナではフョードル・ドストエフスキーもレフ・トルストイも偶像化されたことは一度もなかった。『罪と罰』(一八六六)は世界中で広く読まれているが、思想による殺人の正当性を問うたこの物語は心理的に難解であるばかりか、有害ですらある。作者のドストエフスキーは人間の魂を「悪の容器」へと変えてしまうのだという(『批評』のインタビュー記事より)。

表現はかなり辛辣だが、現に故郷の地が激しい攻撃に曝されている当事者の反応としては充分に理解できるし、過去への無反省という批判は真摯に受け止めなければならない。しかしその一方で、ここで彼女がドストエフスキーの作品について指摘しているような「悪」への深い洞察こそが、そもそもロシア文学の大きな魅力のひとつであるようにも思えるのだ。

筆者である私自身のロシア文学との出会いを振り返ってみてもそうだ。詳しくはこの本で述べるが、私はバブル崩壊後の荒んだ一九九〇年代後半から二〇〇〇年代前半の日本で十代を過ごし、中学校で遭遇した暴力によって鬱屈した感情を抱え込むに至ったが、それに言葉を与えてくれたのが、ほかならぬ『罪と罰』だった。高校生の頃にこの一編の小説と出会ったおかげで、私は安易におのれの暗い衝動に身を委ねずにすみ、悪の問題に言葉で向き合うことができるようになった。

悪と言っても、もちろん表面的な悪のことではない。人間を人間たらしめる否定性や、それによってもたらされる暴力や混沌や不条理といった、私たちの生きる世界を成り立たせている、より根元的な悪である。消費社会論で知られるフランスの思想家ジャン・ボードリヤールが晩年に著した『悪の知性』(二〇〇四)によれば、悪は世界の起源から存在する力であり、私たちのあらゆる行為には自動的に悪が含まれているのであって、善と悪の間には秘密の共犯関係が結ばれている。そうだとすれば、私たちに必要なのは、悪の存在をむやみに否定することではなく、それぞれが自らの内なる悪を自覚し、それと粘り強い対話を続けることだ。さらに言えば、善と悪がコインの表裏である以上、悪を語るとは、逆説的に善を語ることでもある。

この小さな本では、そんな危うい魅力に満ちたロシア文学の古典や、いずれ古典と呼ばれるようになるだろう現代の重要な作品について、自分なりに物語ろうと思う。古典と言うと、ややもすると古臭くて退屈なものを想像するかもしれないが、安心してほしい。ロシア文学には、埃をかぶって大人しく本棚に収まっているような作品はひとつとしてないのだから。ドストエフスキーやトルストイはもちろん、この本で取り上げるゴーゴリやアントン・チェーホフから、現代のソローキンやヴィクトル・ペレーヴィンに至るまで、彼らの作品はどれも現実の不確かさを読者に突きつけ、世界の裂け目に開いた深淵を露わにする。かつてニーチェは深淵を覗く者に自らが怪物にならないよう心せよと警告したが、世界の深淵と対峙することを恐れないロシア文学の作家たちを、私は畏怖の念を込めて「怪物」と呼ぶことにしよう。

この本は文学史に新たな解釈を与えようとするものでも、あるいは逆に教科書的な文学史を改めて書き記そうとするものでもない。ここで試みられるのは、曲がりなりにも二十年近くロシア文学の研究や翻訳に従事してきた筆者の私が、自らの文学の原点に立ち返り、自らの記憶や経験を媒介として、ロシア文学の歩みをたどり直すことだ。いわば、ロシア文学の怪物たちとのごく私的な対話である。この本が、ロシア文学という深い森─暗く、鬱蒼としていて、しばしば危険を伴うが、その代わり思いも寄らない驚きと発見に満ちた森―に読者が足を踏み入れるきっかけとなれば、筆者としてこれ以上に幸いなことはない。 

 (つづきは本編で)

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『ロシア文学の怪物たち』
松下隆志

http://www.kankanbou.com/books/kaigai/0629

四六判、並製、200ページ
定価:本体1,800円+税
ISBN978-4-86385-629-5 C0098

装幀 木庭貴信(オクターヴ)
装画 Januz Miralles

【著者プロフィール】

松下隆志(まつした・たかし)

1984年、大阪府生まれ。専門は現代ロシア文学・文化。北海道大学大学院文学研究科博士課程修了。現在、岩手大学准教授。著書に『ナショナルな欲望のゆくえ ソ連後のロシア文学を読み解く』(日本ロシア文学会賞受賞)、訳書にソローキン『吹雪』『親衛隊士の日』、『青い脂』(共訳)、ザミャーチン『われら』、マムレーエフ『穴持たずども』など。

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