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【20周年に寄せて】2:寒さに音を上げた北海道暮らし/突然降って沸いたカナダ行き(書肆侃侃房・田島安江)

2022年4月で、書肆侃侃房は創業20周年を迎えました。「つれづれkankanbou」では、【20周年に寄せて】と題して、社内スタッフのブログを連載していきます。

第二回の今回は、書肆侃侃房代表・田島の綴る書肆侃侃房が生まれる前夜、第一回の続きのお話です。お楽しみください!

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寒さに音を上げた北海道暮らし

 わたしが札幌に渡ったのは26歳の誕生日を間近に控えた1971年9月6日。初めての北海道への船の旅を楽しんだ。あの頃、わたしはすでに嫁き遅れに近かった。友人たちはことごとく結婚していて、出産ラッシュでもあったし、結婚式はあげないことにして、写真だけ撮ろうと決めていた。札幌グランドホテルでのミニウェディングは3万円。貸衣装と髪のセットに化粧、写真撮影。形ばかりの三々九度の盃があったような。いまではその時の写真だけが残っている。

 札幌暮らしは珍しいことばかりだった。夫が勤めていた北海道大学は広大な敷地を誇り、一般客も中に入って散歩を楽しむことができた。特にポプラ並木が有名だが、5月から6月にかけてはライラックをはじめ、たくさんの花が一斉に花開く。大学に近い公団暮らしは快適だったが、短い秋のあとはすぐに冬が来て、寒さに凍えた。一度などは東京往復して帰ってきたときなど、青森から函館に連絡船で渡り、列車に乗り込んで、発車したとおもったら、一面の雪景色にびっくり。窓を流れるように雪がたたいていく。まだ暦は10月なのに。窓の外を流れていく雪の美しさに見とれていたが、すぐに現実を思い知らされた。札幌駅に着いて、外に出ると、すでに雪が積もっていて、一歩を踏み出すことが出来ない。札幌の冬は普通の靴では歩けないのだ。 

 冬は朝の6時になると、ぼこぼこと大きな音を立ててスチームが入る。その暖房代が馬鹿にならない。冬の間、8000円も家賃があがるのだから。じっと家にいてもすることがなく、北海道放送でレコード係のアルバイトをしたり、代用教員を経験したりした。
 住宅費を節約したくて、江別市の大麻宮町というところに移り住んでからは、夫は汽車通勤になった。冬には時々、雪のために列車が止まった。この時の住居は一階だったので、雪かきをしないと外にも出られない。長女の出産は1974年2月で、一番寒い時期だった。大きな煙突のついたストーブを一日中焚いた。18リットルの灯油缶が3日でなくなる。本当に寒くて、北向きの風呂は凍るし、夜中に授乳のために起きると、震えがきた。

 冬のあまりの寒さにめげそうになっていたとき、夫の福岡への転勤が決まり、福岡に戻ることができた。札幌で生まれた娘は一歳になったばかりだった。

突然降って沸いたカナダ行き

 福岡に戻ってからは、団地暮らしをしながら、いろんなことをして、少しずつお金を稼いだ。友人の店に焼いたパンをおろしたり、マドレーヌを焼いて持ち込んだりした。ほかにも、布を使った人形やバッグ、タペストリーなどを作っては、販売してもらった。しばらく専業主婦を続けたが、長男が生まれ、半年経ったころ、夫のカナダ留学の話が持ち上がった。

 滞在予定は2年。留学費用は出ないが、給料だけは出るといわれて、それなら、家族で行こうということになった。二重生活はお金がかかりすぎるということもあった。当時のレートは1ドル250円。カナダの首都オタワは公務員の街で物価も高く、住宅費は給料のほぼ半分を占める。日本的に考えれば、1ベッドルームで十分と思ったが家族4人だと2ベッドルームでないと貸せないという。節約生活が始まった。夫はほとんど図書館で過ごし、夜も夕飯を済ませて、また出かけていく。

 0 歳の長男と3歳の娘を家に閉じ込めておくわけにはいかず、近くの公園に連れていった。同じように子供を連れた人から声をかけられて、コミュニティセンターでファミリープログラムがあるので参加してみたら、と勧められた。就学前の子どもと親の会で、ただ、遊ばせればいいという。順番でおやつを持ち寄り、本の読み聞かせやお絵かきなどをさせる。わたしはクッキーなどを焼いて行ったがほとんどの人が人参をスティックに切っただけとか、リンゴをくし形に切っただけなど。ああ、なんてシンプルなんだろうと思った。わたしのクッキーはとても喜ばれたけれど、わが子は日本語で、ほかの子は英語で遊んでいる。言葉の壁は大人だけだ。

第三回につづく)

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