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【20周年に寄せて】1:人生を決めたあのとき<上>(書肆侃侃房・田島安江)

2022年4月で、書肆侃侃房は創業20周年を迎えました。「つれづれkankanbou」では、【20周年に向けて】と題して、社内スタッフのブログを連載していきます。

第一回の今回は、書肆侃侃房代表・田島の綴る書肆侃侃房が生まれる前夜のお話です。お楽しみください!(こちらの記事は前半です。後半はこちら

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 書肆侃侃房は今年で20周年ですよ、といわれて「え、もう」なのか、「そうか、そうなるよね」なのか、二つの揺れ動く思いがある。
手元に、地方小出版流通センターの発行する情報誌「アクセス」387号に書いた2009年の記事
(web版:http://neil.chips.jp/chihosho/acj/acj200904-web.pdf)がある。

タイトルは「福岡で創業、7年目に突入。全国で売れる本を! 出版点数100点はあっという間に過ぎた」だ。編集プロダクションの有限会社設立が1989年だったので、2009年とは、これまた、それから20年後のことだったようだ。

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 福岡の大学を出てすぐ大分県庁職員になり、たった2年で辞めて福岡にできたばかりの図書出版「葦書房」に拾ってもらったのだった。拾ってはもらったがもちろん、何もできない。大学は家政科で、本が好きで文学を学びたかったが、父から言われた大学選びの条件は、家政科か薬学部か、とにかく、卒業後に役に立つこと。さすがに薬学部はむりだろうと、家政科を選んだ。まず最優先は家を出ることだったから。しかも、家から通えない場所でなければ。だから、家事はできても、本づくりに必要な素養はなにも持たない。

 わたしは、自分の給与を稼ぐために、次々と出向に出された。

 いま考えれば、このあと、1年余のもろもろがその後のわたしを支えてくれているように思う。出向の理由は給料を払えるほどの仕事がないということではあったが。当時の葦書房は東京書籍に勤めていた4人が福岡で始めた出版社で、全員が取締役。代表取締役は「書店ふくおか」を経営しながらの水上シゲ子さん、二足の草鞋だった。その中でわたしはたった一人の従業員だった。出向先は広告代理店のストで抜けたコピーライターの補助要員、印刷会社の制作スタッフ、隔月刊タブロイド8ページの小さな新聞社など。

 印刷会社には、大学出など一人もいなかったが、特別の違和感はなかった。当時はまだ、オフセット印刷が普及し始めたころで、その版下づくりでは、書体や級数指定など、印刷までの工程をつぶさに見ることができた。わからないことだらけだったので教えてもらうことばかり。罫線を引くところからはじめ、写植文字指定、カッターナイフでの版下修正やペラ帳合いなど。罫線の引き方や網掛け、書体や級数指定などはしばらくずっと役に立った。同じ部屋の一隅に写植文字を印字して焼き付けるための暗室もあった。自分が指定した文字が浮かびあがって印画紙に焼き付けられ、乾かしてから、手渡される。まるで手品をみるようだった。モノクロ写真の暗室とおなじだった。

 そのあとの福岡県婦人新聞社は、社長とふたりの小さな会社。社長は営業と会合で忙しく、ほとんど会社にいなかった。中身はほとんど任せられていたから、自分一人で台割をつくり、面付をし、絵や写真、カット、原稿の依頼もした。一眼レフのカメラを買って、週末に写真講座に行き、ロケで撮った写真の合評もみんなでやった。写真撮影のロケはとても面白くて、同じ場所を撮るのにみんなの視点がちがうことに興味を惹かれた。新聞の読者は福岡県全域の婦人会会員で、月1回各支部の全会長が勢ぞろいし、会長は絶大な権限を持っているように思えた。会長の横にわが社長も並んでいて、わたしは隅っこで集金する係。会合には時々、ゲストがいて、あのグリーンファーザーと呼ばれた杉山龍丸さんがおられることもあった。その他の日は、県内のどこかにカメラをもって取材にでかけたりもした。結婚されたばかりの星野焼の陶工で詩人の山本源太さんを訪ねて記事にしたこともあった。

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そんなある日、そろそろ帰って来ていいよといわれ、新聞づくりを交代して、初めて、出版の仕事をさせてもらうことになった。

 わずかな期間だったけれど、大事なことはこの間に学んだように思う。教えてくれたのは印刷会社の営業マンで、わたしはしつこく、こんな風にしたいんだけど、どんな指示を書いたら、こんな風になるのか、と問い続けた。まだ号数活字と写植級数活字とが混在していたころのこと。葦書房の全員が素人に近かったので、教えてくれる人は誰もいなかった。自分で考えろというわけだ。夜や休みの日は、他の人たちの校正紙をもらって持ち帰り、校正の練習をしたし、とにかく、片っ端から本を読んだ。

 学生時代からずっと、ほとんど文庫しか買えなかったが、福岡には古本屋や貸本屋があったし、図書館にも通えた。お金がなくても、本さえ読めたらそれでよかった。休みや仕事帰りなど、読みたい本があるとそれをもって、喫茶店に行き、コーヒー一杯で何時間も粘った。学生時代も仕事をもってからも、喫茶店はいつでもわたしの仕事場だった。映画はセンターシネマなら古い映画を一日4本続けて観ることもできた。あの頃は入れ替え制ではなかったので、何時間いても、何回、同じ映画を観ても、誰も何もいわなかった。

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【20周年に寄せて】1:人生を決めたあのとき(下)につづく


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