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【試し読み】『現代詩ラ・メールがあった頃 1983.7.1 — 1993.4.1』(「ラ・メール誕生の夜」より)



棚沢永子『現代詩ラ・メールがあった頃 1983.7.1 — 1993.4.1』(「ラ・メール誕生の夜」より)

女性だけの詩誌を作る。それは、当時の詩壇にとってどのようなことだったのだろう。

事の発端はその年一月末の、ある深夜のこと。新詩集『花のもとにて 春』の打ち合わせのために吉原邸を訪れた小田さんと、例によってちょっと酔っ払った吉原幸子さんとのやりとりからだったという。お酒が進むにつれて吉原さんは日頃の男性中心の詩壇への不満をぶちまけ、では女(おんな)詩人会のようなものを立ち上げてみたらどうか、と小田さんが提案する。そして、それは誰と組めば可能か、という話になり、少し先輩の新川和江さんに白羽の矢が立った。吉原さんは、真夜中だったのにもかかわらずいきなり電話で新川さんをたたき起こし、「今の詩壇は女たちが活躍する場がない。女たちで集まって何かやりませんか」と誘ったのだという。

ちょうどその頃、新川さんは日本現代詩人会初の女性会長に就任し、まさに同様の思いを抱いていた。だから吉原さんの突然のラブコールには強く共感するところがあったのだろう。しかし、そうはいってもその提案をすんなりと受け入れることにも抵抗があった。新川さんは当時を振り返って述懐する。

「だって、女ばかりでただ寄り集まってもしょうがないじゃない。そういう会なら深尾須磨子の時代にもあったのよ。けれど、結局女性の地位は変わらなかった。男の詩人たちから「バカな女たちに何ができる」って言われるのがオチでしょう?」

ならば、どうしたらいいのか。この状況を変えるには、もっと建設的なことをやらなければ。そして、二人は一つの明快な答えに行きつくのだ。

「では、いっそ自分たちで書く場を作ってしまえばいいのよ。私たちで新しい詩の雑誌を作りましょう。女の手による女のための詩の雑誌を!」

二人はあっという間に意気投合し、「現代詩ラ・メール」創刊の話が具体化するのに、それから何日もかからなかった(「現代詩手帖」一九八三年五月号 新川和江「深夜の電話から」参照)。

 

……と、ここまでは表向きの話。後になって聞いたことだが、実はこの「真夜中の電話」の話には、ちょっとした後日談がある。

とんとん拍子に新雑誌創刊の話がまとまり、その夜、新川さんは非常に高揚した気分で電話を切った。ところが……。

その後どうしたわけか、何日たってもなしのつぶて、吉原さんからも思潮社からも何の連絡もない。どうも変だと思って吉原さんの家に電話を入れてみると、返ってきた返事は「は? 何のことでしょう?」。「え、そんな……」。あの晩、酩酊していた吉原さんは、自分が電話をかけたことすら覚えていなかったのだった。新川さんは絶句し、落胆する。

しかし、吉原さんという人も元来律義な人であるから、すぐに事の成り行きを察して自分の失態を詫び、気を取り直して仕切り直し、となる。日頃から旧態依然とした男社会の詩壇に不満を抱いていた二人のことだから、その後は急速に新雑誌創刊へと話が動き出したのだった。

編集協力の依頼はやはり「真夜中の電話」の場に居合わせた小田さんの思潮社へ。話を持ちかけられた小田さんも覚悟を決める。第一回目の編集会議が開かれたのは二月二日、大久保駅前の喫茶店「ラ・メール」だった。その店名がそのまま誌名に採用され、創刊に向けてのてんやわんやの日々が始まる。四月の下旬には記者会見、多くのメディアからの取材、詩人たちをはじめ各方面への創刊挨拶と会員募集の手紙の発送、そして六月二十五日には創刊号発売。一月末の深夜の電話から五カ月足らずという、本当にわずかの準備期間で、女性による女性のための詩誌「現代詩ラ・メール」が産声をあげた。

 

 あらゆる生命の起源である海、その海をひとつずつ抱え持つ存在である女たちの詩誌―という意味をこめて命名した「現代詩ラ・メール」は、発表と同時に各方面から予想外の関心を寄せられ、行く先々で創刊号はいつ出るのかと期待にみちた質問を受けた。

 男女を問わず声をかけてくださる人たちの目に、いまどこかに新しく出現しつつある海そのものを、思い描いておられるようなかがやきがあって、かえってこちらのほうが、これから創ろうとしている海をその都度発見させていただく心地がした。 (創刊号 新川和江「編集後記」より)

 

八〇年代初頭の詩壇は、まさに「女性詩の時代」と言われるようになっていた。

一九八二年、青木はるみさんが詩集『鯨のアタマが立っていた』(一九八一年思潮社刊)で第三十二回H氏賞を受賞、一九七一年の白石かずこ詩集『聖なる淫者の季節』(一九七〇年思潮社刊)以来、女性の受賞は実に十一年ぶりのことであった。同年、思潮社が伊藤比呂美詩集『青梅』を皮切りに「叢書・女性詩の現在」シリーズの刊行を開始。井坂洋子さん(八三年、このシリーズの詩集『GIGI』で第三十三回H氏賞を受賞)や白石公子さんら若い女性詩人たちの詩が次々にセンセーショナルに取り上げられる。四月、思潮社創立二十五周年記念の現代詩新人賞が平田俊子さんに決まると、「またも女性かッ!」という見出しが新聞の紙面を飾ったりもした(毎日新聞一九八三年四月九日)。当時、彼女たちの詩集の売り上げは、それまでの〝詩は売れない〟という既成概念を根底から覆すような勢いであった。

ラ・メールの創刊に際し、小田さんは当然ながらそんな時代の風を感じていたことだろう。しかし、どう考えてもまだまだ男社会の当時の詩壇からすれば、やはり女性だけの詩誌を出すということは一種の冒険だったに違いない。

自らの性や悪意や狂気さえ赤裸々に、しかも軽やかに語ってみせる若い女性詩人たちの登場を、当時の詩壇は驚きと賞賛と、少なからぬ嫌悪とをもって迎え入れた。それらの言葉は鮮烈ではあるけれど、下手をすれば興味本位に読み流されてしまいそうな、そういう危うい「女の子」たちの時代だった。なぜなら、その評価のほとんどは男性詩人たちの手に委ねられていたのだから。私自身、「なんと率直なのだろう」と思った作品を先輩の男性編集者が「露悪的」と評するのを聞いて、ずいぶん違う感想を持つのだなと驚いたこともあった。

具体的な数字を見てみよう。たとえば一九八三年一月号の「現代詩手帖」の書き手は、男性四十一人に対し女性はわずか六人。時評、詩誌・詩書評、新人欄の選者もすべて男性が占め、まだまだとても女性の時代と呼ぶにはほど遠いものがあった。ラ・メールの創刊に「また女か……」とため息をつく男性詩人もいたようだが、ごく一部の若い女性詩人を除くと、「また」と言われるほどの活躍の場は中堅の女性詩人たちには与えられていなかった。

吉原さんは、「歴程」にこそ入っていたが、どちらかというと孤独に詩を書いてきた人であり、当時親しくつきあっていた女性の詩人はそれほど多くはなかったようだ。発端となる深夜の小田さんとの話の中で、彼女はそれでも何人かの女性詩人の名前を挙げた。「おりょうさん(新藤凉子さん)は?」「否」「白石かずこは?」「否」―小田さんはなかなか首を縦には振らなかった。そして、当時はそれほど親密だったわけでもない新川さんの名前が出たとき、初めてゴーサインを出したという。時代の要請があったとはいえ、小田さんのこの嗅覚がなかったら、きっとこの雑誌は十年も続くことはなかった、と私は今でも思っている。

しかし仕掛け人の小田さんにとっても、ラ・メール創刊前後の異様な盛り上がりぶりは予想をはるかに超えるものだったようだ。創刊からしばらくたった頃、入会事務の手続きに忙殺される私に、彼は「本当はね、二、三百人ぐらいの会員雑誌ができればいいなと思っていたんだよ」とこっそり教えてくれた。だが、その予測に反して、創刊号発売を前に会員数はすでに七百名を超えていたのだった。

 

 

入社初日の夜に話を戻そう。

吉原邸は照明の暗い家だった。そして、とても猫くさい家だった。たくさんの本と、猫の爪跡でささくれた革張りのソファー、ドライフラワーの薔薇の花束たち、吉原さんがいつも原稿を書いていた奥の茶の間(ここだけは少し明るかった)、掘り炬燵、そして原稿やゲラ(印刷前の校正用紙のこと)の上を闊歩する気ままな猫たち。一九八八年に建て替えられる以前の、私の中の旧・吉原邸の印象だ。

薄暗い居間に通されると、その革張りのソファーにゆったりと座って、含みのある美しい声で「小田さん、私ねえ……」と優雅に話しはじめたのが新川和江その人だった。少し色の入った眼鏡の縁でキラリと小さな石が光っていたのが忘れられない。そして、スリッパを出したり飲み物を用意したり、こまごまと客人を気遣いながらハスキーな声で会話に入ったり、また出たりするのが吉原幸子さん。しょっちゅう中座してはどこかへ行ってしまうので、話は自然とあちらへこちらへと脱線し、なかなか前には進まない。のちにこの吉原さんの性分に私はたびたび悩まされもするのだけれど、そのキリッとした外見とは裏腹に、実にこまやかな気配りをする人だった。そして、会議は大きく緩やかに蛇行しながら流れてゆき、時にひょんなきっかけから思いがけないアイデアが生まれたりもするのだった。

二人のたたずまいは本当に対照的だった。宝塚の男役のように凛としていて、てきぱきと動き回る吉原さんと、いつも鷹揚にかまえ、にこやかな笑みを絶やさない太母のような新川さん。そして、二人とも一見しただけで納得してしまう、いかにも詩人らしい風貌をしていた。今思うとちょっとおかしいけれど、私はこのとき生まれて初めて詩人と呼ばれる人たちに出会い、その眼光の強さにすっかり度肝を抜かれてしまったのだった。

 

その晩はおびただしい数の女性の名前が、次々と二人の口からこぼれ出た。しかし、それがほとんど全部詩人の名前だと気づいたのは、情けないことに数日たってからのことだった。お恥ずかしい話だけれど、当時の私は詩人の名前もろくに知らなかった。現代詩文庫を何冊かと、谷川俊太郎詩集ぐらいしか持っていなかったようなド素人の新人には、地方で活躍する女性の詩人の名前など知る由もなかった。

二人が挙げる女性たちの名前に、小田さんがうなずいたり首を振ったりして、大まかな目次が固まると、もう深夜だった。二人の思いはとても強くて、執筆依頼の人数は予定の頁数をはるかにオーバーしていた。その場にいた四人の中でただ一人編集のプロであった小田さんは、ずいぶんと気を揉んだことだろう。いや、それとも、それも想定内だったのか。「いいんじゃないですか」と、彼は何度も言った。そして、創刊号に声がかかるかどうかが女性詩人たちにとってどんなに大きなことなのか、のちに私は思い知ることとなる。

新川さんは吉原さんに言った。

「私は過去の女性詩人の再評価や、埋もれてしまっている詩集を掘りおこす作業をするから、あなたは外へ向かって、ジャンルを超えて活躍する女性たちと交流を図ってね」

そしてその言葉は、この詩誌の方向性を決める大事なキーワードとなったのだった。詩壇の中で重要なポジションにいて、広く詩人たちへの目配りが利く新川さんと、もともと劇団四季の女優で演劇や舞踊などの世界とつながりが深い吉原さん。二人はとてもいいコンビだった。男性詩人たちの視点に頼らず、女性自身の手で女性詩の今を検証し、未来を織り上げていくための縦糸・横糸となること。そしてまた、投稿欄にまとまった頁数を割いて新人の育成に最大限に力を注ぐこと。

このようにして、与謝野晶子以来の女性詩人の系譜をたどる連載評論「女性詩人この百年」、新川さんが自身の本棚からかつての優れた女性詩集を選び、紹介する「名詩集再見」、さまざまなジャンルで活躍する女性たちのところへ吉原さんが乗り込んでいって体当たりでインタビューをするという「ラ・メール対談」、そして毎回二人がすべての投稿に目を通し、選んだ三十篇からの作品を一挙掲載した「ハーバー・ライト」欄、これらは終刊までの十年間ほぼ変わることなくこの雑誌を支え続けた四本の柱だった。これらの柱については、また後の章で触れることにしたい。

【続きは書籍『現代詩ラ・メールがあった頃 1983.7.1 — 1993.4.1』でお楽しみください】

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棚沢永子
『現代詩ラ・メールがあった頃 1983.7.1 — 1993.4.1』

A5/並製/256ページ
定価:本体2,000+税
ISBN978-4-86385-585-4 C0095 


【著者プロフィール】
棚沢永子(たなざわ・えいこ)
1959年東京生まれ。大学卒業と同時に、ちょうど創刊された「現代詩ラ・メール」の編集実務を担当。鈴木ユリイカ責任編集の詩誌「Something」に、田島安江とともに編集人として参加。現在は夫婦で喫茶店を経営しながら、フリーで編集&ライター業。著書に『東京の森のカフェ』(書肆侃侃房)がある。

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