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【20周年に寄せて】1:人生を決めたあのとき<下>(書肆侃侃房・田島安江)

2022年4月で、書肆侃侃房は創業20周年を迎えました。「つれづれkankanbou」では、【20周年に向けて】と題して、社内スタッフのブログを連載していきます。

第一回の今回は、書肆侃侃房代表・田島の綴る書肆侃侃房が生まれる前夜のお話です。お楽しみください!(こちらの記事は後半です。前半はこちら

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 誰にでも人生には、あのとき、というのがいくつかはある。

 私の場合、人生の分かれ道ではほとんど、じっと立ったまま時が満ちてくるのを待っていることはできなかった。直感に近い何かによって判断してしまう。

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 大学を卒業した私は、国家資格もとり、大学出は初めてという大分県庁の農政部勤めに就いた。にもかかわらず、二年で辞めて、福岡の出版社になんとか潜り込んだというのに、「給料払えない。ごめん」と言われてリストラにあった。辞めるしかなかったが、私には、故郷に帰るという選択肢はなかった。本を読み、喫茶店に行き、映画を観たり、ギャラリーで絵を眺めたりできるという至福の日々は手放せない。

 しかし、リストラをされては一杯のコーヒーにも困ってしまう。夜間バイトで稼ぎ、なんとか生活するということもできたかもしれないが、その時は思いつきもしなかった。そんなわたしを拾ってくれたのは、大阪の親戚がやっている中規模の会社だった。

 社長夫人は母の従姉妹で、夫婦には子どもがなかった。会社は西成にあって、借りた部屋は岸ノ里。社長宅は、甲子園口駅からすぐのところにあり、当時はまだ珍しかった二世帯住宅のように二つの住戸がベランダを通してつながった分譲マンションだった。住み込みと通いのお手伝いさんが家中をピカピカに磨き、叔母が料理をするので、わたしの出る幕はなく、食事が終わるとその頃住んでいた、岸ノ里まで電車を乗り継いで帰っていった。必ずお土産を持たせてくれるのだが、使わない方のバスルームに山のように積み上げられた贈り物の中から、お茶や海苔などを持たせてくれる。悪気がないのはわかっているが、そのことごとくが賞味期限切れで色が変わっていた。

 そしてある日、珍しくワンピースを作ってくれて、それを着たスナップ写真を撮った。それが見合い写真に使われたと知ったのは、相手の見合い写真を見せられたときだった。社長夫妻からの「会社を継いでくれそうな相手と結婚して跡取りになってくれないか。見合い相手も決めたよ」といわれて、仰天した。それがどこの誰であったか、まったく記憶にないが、とにかく、私の顔は青ざめていたにちがいない。よく考えてみて、と言われ、アパートに帰る途中、動転していたのだろう、なんといって断ろうかとそればかり考えながら、大阪環状線をぐるぐる回りつづけた。わたしに社長夫人など務まるはずがない。

 ふと、電車の窓から外を見ると、満月が輝いていて、その月を見上げながら、断るなら早いほうがいい、と、やっと思い定めた。会社に辞表を出し、叔母にも頭を下げて、実は、結婚しようかと思っている人がいる。その人に連絡をとったら、「では、ここにこないか」といわれた。申し訳ないがわたしはそこに行こうと思う、と。

 そうして、荷物をまとめて札幌に送り、東京の桟橋から苫小牧行のフェリーに乗ったのだった。二晩船に泊まり、朝早くに苫小牧に着いた。途中ずっとフェリーのデッキに座り、過ぎていく海と島影を眺めた。誰とも話すことなく、デッキに座ってただ、夕日が沈み、星が輝き、そして朝日が昇るところを眺めて過ごした。後悔はなかったけれど、落胆する叔母たちの顔が浮かび、やるせない思いが船の澪に沿って流れていった。

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(つづく)


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