バナー柳原_世界文学の体温ラテンアメリカ文学

第3回 ラテンアメリカ文学概説——カルペンティエール『失われた足跡』を読みながら①(柳原孝敦)

 前回予告したように、ここではアレホ・カルペンティエールの長篇小説『失われた足跡』(1953)に解説を加えながら、それへの注釈の形でラテンアメリカ文学を概観することにする。読者は当該作品を並行して読みながら本論を読んでもかまわない。もちろん、あらすじなども紹介するので、実際の小説は読まず、ただ本論だけを読み、ラテンアメリカ文学の見取り図を理解すると同時に『失われた足跡』を読んだ気になるだけでもかまわない。本論の後に、事後的に『失われた足跡』を読むのも、もちろん、自由である。ただし、結末部も含めて内容を明かしながら進むので、そうしたこと(いわゆる「ネタバレ」)を嫌う向きには小説を一読後、本論を読むことをお勧める。とはいえ、推理小説ではないのだから、殺人犯をあらかじめ明かすつもりはない。明かすべき殺人犯もいない。

『失われた足跡』概要

 ニューヨークとおぼしき北米の都会に住む作曲家の「わたし」(最後まで名前は明かされない)は、アカデミズムに挫折し、コマーシャルなどの商業音楽で身を立てている自分にフラストレーションを感じている。女優の妻はロングランの舞台で忙しく、ムーシュという名の怪しげな占星術師を愛人としている。大きな仕事を終えてまとまった休暇に入ったばかりのある日、「わたし」はかつて師事していた大学の楽器学博物館館長から、南米の先住民たちの間に伝わる原始の楽器を手に入れてきてほしいと依頼される。最初は嫌がっていた「わたし」だが、ムーシュがこの話に興味を示し、問題の楽器は適当に捏造するなりして、ふたりでヴァカンスとしゃれ込もうではないかとそそのかされ、出発することになる。
 不承不承ではあったものの、スペイン語を母語として育った「わたし」は、現地に着いてみると、幼時の記憶と同時に失いかけていた活力を取り戻したように感じる。折から勃発したクーデターで首都にいられなくなると、ムーシュがホテルで懇意になった女性の別荘がある地方都市へと移動する。「わたし」はそこで断固として当初の目的を果たす決意をし、あくまでも楽器探索や先住民の世界に興味のないムーシュに無理強いして旅を続けることにする。
 途中からバスに同乗してきた混血の女ロサリオの実家のある町プエルト・アヌンシアシオンまで行くと、彼女の父の臨終に立ち会うことになった。「わたし」はその葬儀にギリシア悲劇のような荘厳さを見て取る。この町で知り合った〈先行者〉なる人物の話に興味をかきたてられ、彼らとともに河を遡る旅に出る。同行するのは博物学者モンツァルバッヘ、ギリシャ人黄金探索者ヤネス、修道士ペドロ・デ・エネステローサ、それにふたりの女性だ。河を遡り新たな中継地点に着くたびに「わたし」は、20世紀半ばに生きていた自分が、ロマン主義の時代、征服と植民の時代、中世、と時間を遡っているかのような感覚を抱く。
 周囲の自然になじんだロサリオに惹かれ、反対に不平ばかり述べ都会に戻ろうと主張し、どうやらヤネスと浮気までしているらしいムーシュに愛想を尽かした「わたし」は、熱を出して弱った彼女を離脱するモンツァルバッヘに託し、ロサリオとともに旅を続ける。〈先行者〉はある奥まった場所でインディオたちの共同体を組織しているのだという。一行はそこに向かっているのだった。途中、問題の楽器を手に入れた「わたし」ではあったが、〈先行者〉に同伴してその共同体まで行くことにする。
 テーブルトップマウンテンの麓に〈先行者〉が建設した先住民の共同体サンタ・モニカ・デ・ロス・ベナードスで過ごすうちに「わたし」は、すっかり創作意欲を取り戻し、若いころ作りかけで放棄していたカンタータの続きを着想し、作曲に取りかかる。だが、紙がなく、補充が必要だと感じていたところに、妻が依頼した捜索隊の飛行機がやってくる。「わたし」は必要な物資を補給し、妻と離婚した後に戻ってきて、この村でロサリオと結婚し、創作を続ける心づもりで飛行機に乗り込む。
 「わたし」の予想に反し離婚訴訟は手間取ったし、スキャンダルも巻き起こしたのだが、どうにか思いどおりにことを進めて再び南米の地に戻った「わたし」は、しかし、目指すサンタ・モニカ・デ・ロス・ベナードスへと向かうルートの目印を見つけることができなかった。河の増水で木の幹に刻まれていた目印が見えなくなっていたのだ。ロサリオの家族もいなくなって様変わりしたプエルト・アヌンシアシオンで待機していると、サンタ・モニカ・デ・ロス・ベナードスのすぐ近くでダイヤモンドの鉱脈を見つけたというヤネスと再開する。彼は目指す村の様子を語り、そこではロサリオは〈先行者〉の息子の妻となり、子を宿していると告げる。「わたし」は自分が決定的にこの世界に受け入れられない存在であることに気づく。

『失われた足跡』の評価

 以上が『失われた足跡』の梗概である。岩波文庫に収録された訳者牛島信明の解説は、作品内の時間操作に焦点を当てている。1950年、ちょうど世紀の折り返しの年の、近代化の最先端と言っていいニューヨークの街からラテンアメリカの架空の国の首都、その地方都市、大河流域の港湾の町、支流の小さな村々、そしてできたばかりの先住民の共同体へと続く旅が、一部は日記形式になっていることもあり、物理的な時間が下るに従い周囲の空間が告げる時間は遡っていく形式になっている。つまり時間が逆行しているのだ。この逆行する時間の扱い方がみごとだという。
 小説はひとつの世界を読者に提示するものであるから、世界の構築のしかた、その技法がひとつの判断基準となる。私たちが扱おうとしているのは、20世紀の半ば、1960年代に〈ブーム〉と呼ばれる現象を起こして世界文学の前面に躍り出て、スタンダードとして定着したラテンアメリカの作家たちであるが、彼らの多くがその技法によって世界に評価されたことは間違いない。絶世の美女を昇天させたガルシア=マルケス『百年の孤独』(1967/鼓直訳、新潮社 改訳版、2006)の手並みのみごとさ、パズルのピースのように断片化されたページを読み進むうちにそれらが複雑に絡み合った全体像が見えてくるバルガス=リョサ作品の構築性、あらかじめ複数の読みの可能性を示唆されたフリオ・コルタサル『石蹴り遊び』(1963/土岐恒二訳、水声社、2016)の可塑性あるいは開かれ方、そうしたものが世界の読者に多大なインパクトを与えたのだった。かくして〈ブーム〉の先駆者のひとりであるカルペンティエールは、当初、この時間操作の巧みさで世界を魅了したのだという。
 『失われた足跡』を着想し執筆していた1940年代後半から50年代にかけて、カルペンティエールがまさに時間をテーマとした短篇をいくつか書き、その後(1958年)『時との戦い』(鼓直訳、国書刊行会、1979)というタイトルで単行本化して上梓していることも、私たちが作家の時間操作の技法に目を向けたくなる原因だろう。版によって収録作に増減のあるその短篇集の、すべての版に共通する基本のラインナップは、『失われた足跡』同様に逆行する時間を扱った「種への旅」、円環する時間の「聖ヤコブの道」、時間が並列するかのような「夜の如くに」の3篇である。ヴェートーヴェンの交響曲第3番「英雄」の演奏時間内にひとりの男の過去を閉じ込めた『追跡』(1956/杉浦勉訳、水声社、1993)はやはり問題関心を共有する中篇小説で、いったんは『時との戦い』とともに出版されたこともあるのだが、今では独立した作品として扱われることが多い。邦訳した杉浦勉がその「解説」で述べているところを見るに、訳者はこれも『時との戦い』を構成するべきだと考えているようだ。
 カルペンティエールのテクストの構造にかかわる時間操作で最も重要なのは、一種のアナクロニズムとでも言うべきものだと私は思うのだが、これについては後に論じることにしたい。ともかく、このように時間操作の技法で注目されたのが『失われた足跡』という小説であるが、もちろん、技法のみならずそこに描かれた対象も充分に読者を魅了するものであったことは間違いない。描かれた対象とは、大河沿いの密林地帯と、その奥にあるテーブルトップマウンテンなどの自然であり、そこに暮らす人々の文化である。
 私たちは今でこそオリノコ河やアマゾン河といった南米大陸の大河とその流域の密林、あるいはベネズエラとガイアナ、ブラジルが境を接する地域にあるアウヤンテプイやロライマらのテーブルトップマウンテン、エンジェル・フォールらの驚くべき自然を、映像を通じて目にする機会に多く接している。名を挙げた台形状の山々の存在は既に19世紀には知られていたとはいえ、エンジェル・フォールの発見は1937年、『失われた足跡』のわずかに16年前のことだ。落差が世界最大のこの滝の近辺へカルペンティエールが旅してコラムに書いたのは、発見から10年後だった。この滝は小説に姿を現すわけではないが、ともかく、現在カナイマ国立公園に属するベネズエラ奥地のこの辺りの自然は、当時の読者にはまだまだ新鮮で驚異的なものであったに違いない。
 ロライマのテーブルトップマウンテンと言えば、ここを探検した者の話と写真に触れて霊感を得たアーサー・コナン・ドイル卿が、ここを舞台にしたSF小説『失われた世界』を発表したのは1912年のことだった。それから『失われた足跡』までには42年の歳月が流れているとはいえ、その間にこの近辺を舞台とした物語は紡がれていないのだし、何よりもロライマ山で恐竜や猿人に出くわす探検隊を扱った『失われた世界』の荒唐無稽な想像力とは対照的に、『失われた足跡』で「わたし」は先住民の生活と音楽、楽器、祭などを観察してそこに確かに恐竜ではなく人間の存在を認めているのである。これが極めて新鮮な受け止められ方をしたことはまず間違いがないだろう。私たちから見た『失われた足跡』刊行の年1953年は、『失われた足跡』から見た『失われた世界』刊行年よりも遠く離れた時代(65年以上前)であることを忘れないようにしよう。

風景描写について

 『失われた足跡』がオリノコ河およびその支流域を舞台にしたことの意義、その単独の意味については、次回、少しばかり紙数を割いて考察したい。今は一般論的に、小説におけるその舞台の描写ということを考えてみよう。『失われた足跡』は密林とその奥を描いた作品だが、そういうものとしてインパクトを与えるには、それを描写する筆力が必要であっただろう。実際、その描写は印象的である。

〈大高地〉に朝がきた。夜の霧はまだ〈形状〉のあいだにとどこおって、ヴェールを広げているが、薔薇色の花崗岩の断崖からさしこんだ光が、巨大な闇の間に横たわっているところまでおりてくるにつれて、希薄になり、しだいに消えていく。その頂がもやのなかにとけているような、緑色、灰色、黒の大壁のふもとでは、羊歯が、その背に七宝細工をほどこしていた薄い霜をふりはらっている。幼児一人かくすこともできないくらいのくぼみのなかに、地衣類、蘚苔類、植物のさび、銀色の色素細胞などからなる一つの生命があったが、それは極小の規模において、大ジャングルと同じくらい複雑な世界を構成していた。(岩波文庫版。太字で示した箇所は翻訳原文の傍点)

 小説内で一貫して「〈大高地〉」と称される匿名のテーブルトップマウンテンの切り立った「大壁」から夜霧が取り払われていくにつれ、山の麓の、ついで岩肌の植物群が鮮明に見えるようになる朝の描写だ。〈先行者〉の建設した先住民の共同体サンタ・モニカ・デ・ロス・ベナードスに到着した翌日の「わたし」の目に映った壮大にして新鮮な景色が、こうして克明に、地衣や苔の細部にまで分け入ってそれらがジャングルに例えられるまでに微視的に描写されている。これは第5章26節冒頭の数行だが、およそ小説とは、少なくとも近代小説とは、冒頭(作品全体の冒頭、および章や節などの区分の冒頭)にこうした舞台の背景となる風景の描写を連ねて世界を構築していくものだ。この描写が小説の成否を分ける生命線と言ってもいい。そうした生命線であるべき風景描写が優れていたからこそ『失われ足跡』は読まれ、賞賛されたことは間違いない。
 舞台背景となる風景の描写が小説の生命線であるということは、言い換えれば、それが小説の成立条件だということだ。風景描写が確立してはじめて小説は成り立つ。しかし、だからといって風景描写の確立は、小説というジャンルの成立とともになされたわけではない。たとえば、私たちスペイン語文学を専門とする者が最初の近代小説と位置づける『ドン・キホーテ』には冒頭の風景描写はない。「それほど昔のことではない、その名は思い出せないが、ラ・マンチャ地方のある村に、槍掛けに槍をかけ、古びた盾を飾り、やせ馬と足の速い猟犬をそろえた型どおりの郷士が住んでいた」(牛島信明訳、岩波文庫)という人物紹介があるのみだ。おそらく、ヨーロッパ各国の文学において風景描写が確立するのは、つまり風景が発見されるのは、ロマン主義の時代と言っていいだろう。ロマン主義者たちは美しい田園や庭園の風景の中で語り合う恋人たちを描き、あるいは人跡未踏の地の断崖や木々に「崇高」の概念を見出した。
 ラテンアメリカ(スペイン語圏、すなわちイスパノアメリカ)の国々の大半は1810年から1825年の間にスペインから独立している。ラテンアメリカ文学や各国文学(たとえばメキシコ文学)の歴史を植民地期や先コロンブス期から語り起こす立場もあるだろうが、それは私の手に余る作業なので、とりあえずこの独立期、1810年代以降をここでの「ラテンアメリカ文学」の対象としよう。この独立期がヨーロッパ各地の文芸思潮においてはロマン主義の時代だったことは重要だ。独立した、あるいは独立を戦っている最中の各国の詩人や作家たちがこの潮流を導入することによって自分たちの文学を立ち上げようとするからだ。
 ラテンアメリカで特に読まれ、模倣されたヨーロッパのロマン主義小説のひとつにフランスのフランソワ・ルネ・ド・シャトーブリアンの『アタラ』(1801)がある。仏領アメリカ植民地(ルイジアナ)の先住民の恋愛を描いたこの小説は、ベルナルダン・ド・サンピエールがフランス島(モーリシャス島)のフランス人の恋愛を描いた『ポールとヴィルジニー』(1787)ともども、後々まで参照系として読み継がれる。『アタラ』を最初にスペイン語訳したのが、独自の宗教観からメキシコの独立運動を精神的に導いた修道士セルバンド・テレサ・デ・ミエル(1765-1827)だった。後にレイナルド・アレナスの小説『めくるめく世界』(1969)の主人公になるほどの波乱の人生を生きたこの人物は、独立後は上院議員も務めるほどで、作家というよりは政治家なわけだが、こうした人物によってロマン主義恋愛小説がラテンアメリカに紹介された事実は、この思潮の重要度を物語っている。ロマン主義小説は自然描写という文学の形式のみをもたらしたのではない。行動する者たちの独立への気概も鼓舞したのだ。
 美しい自然の中で恋人たちが愛し合うロマン主義の小説がどのようにしてラテンアメリカの人々の独立への意気込みに力を貸したのか? ロマン主義小説が恋愛する心を読者に植えつけることは言うまでもない。ゲーテの『若きウェルテルの悩み』(1774)やシャトーブリアン『ルネ』(1802)が多くの追従者を生み出したことは現代まで語り伝えられるほどに有名だ。恋愛は自己意識を醸成し、行動を使嗾(しそう)するものである。言い換えれば恋愛は主体を形成する装置となる。さらには、ロマン主義小説においては恋愛は美しい自然の中で展開されるので、主体つまり「恋愛する私」はその自然を強く感受する。そして自然とは「恋愛する私」の周囲の自然であり、それは懐かしい故郷や愛すべき祖国のそれである。つまり自然はまたナショナル・アイデンティティのよすがともなる。だからロマン主義はナショナリズムを発動させ、植民地の人々を独立へと誘うのだ。
 19世紀のロマン主義小説と呼ぶにはいささか時代が下るものの、その世紀の後半から20世紀の初頭にかけて多くの国で盛んに読まれ、映画化も何度かされたコロンビアのホルヘ・イサークスの恋愛小説『マリーア』(1867)の印象的なシーンを見てみよう。主人公兼語り手のエフラインが、妹のエマと、妹同然に同じ家で育てられたマリーアを相手に戸外でシャトーブリアンを読んで聞かせる一節だ。

 ある日の午後、私の国の午後は常にそうですが、すみれ色の雲と白金の閃光によって美しく、マリーアのように美しく、私にとってのマリーアのように美しくはかない、そんな日の午後でした、彼女と妹と私は、右手には川が騒がしく音を立てて流れる沃野と、足下には勇壮にして静かな谷を見下ろす坂の、広い石の上に腰掛け、私がアタラのエピソードを読んで聞かせました。ふたりは驚くほどにうっとりとして身動きひとつせず、私の唇から、詩人が「世界を泣かせる」ために紡ぎあげたメランコリックな言葉のひとつひとつに聞き入っていました。妹は右腕を私の肩に置き、顔はほとんど私の顔にくっつけ、私が読んでいく一行一行を目で追っていました。私の傍らに半ばひざまずいたマリーアは、既に潤んだその目をそらそうともしませんでした。(Jorge Isaacs, María. 強調は引用者)

 コロンビアの太平洋側、バーリェ・デ・カウカの農園を舞台とするこの小説は奴隷解放やユダヤ教徒のキリスト教化といった問題なども含む実に多義的なテクストで、論ずるべきことは多いのだが、とりあえずは「恋愛する私」エフラインの目に映った風景のみを確認しておこう。午後の空の美しさをマリーア(恋する対象であるマリーア)の美しさに重ね合わせ、さらにはそれを「私の国」すなわちコロンビアの美しさへと敷衍している。カリブ海やアンデス地方など、エフラインのいるバーリェ・デ・カウカ地方とは異なる景色を湛えているに違いないその他の地方のヴァリエーションなど、彼の心には意味をなさないのだ。
 ロマン主義文学作品の風景描写がナショナル・アイデンティティの表象となることについては、日本語でも、花方寿行『我らが大地』(晃洋書房、2018)という研究書があり、細かい議論はそちらに譲ることにして、ここではよく言及されるふたりの名(作品名)だけを挙げておこう。
 ベネズエラのアンドレス・ベーリョの詩「熱帯地方の農耕に捧ぐ」(1826)はウェルギリウス「農耕詩」などを踏まえた古典主義的なところを保ちながらも、その知覚のあり方はロマン主義的でもある。古典的な農産物との対比で、列記されるバナナなどの植物が「熱帯地方」の特色を浮かび上がらせる。花方によれば、ベーリョ作品の中でこれ以上にナショナル・アイデンティティの表象として重要なのは未完に終わる長編詩『亡命者』であるらしい。しかしカルペンティエールはあくまでも「熱帯地方の農耕」の詩の作者としてベーリョを想起させる人物を、今ではラテンアメリカの都市の一種の典型的な風景の中に据えている。もちろん『失われた足跡』でのことだ。南米大陸の首都の街でクーデターに遭遇し、ホテルで知り合ったドイツ人画家の別荘がある地方都市ロス・アルトスにやってきた「わたし」は、14基の街灯に照らされ「山腹に長く伸びる版画の町」の様相を呈するその景観を、街灯の焦点を追いながら描写していく。

第四の灯は、賞賛すべき『農業賛歌』の作者である、この町が生んだ卓越した詩人の彫像を白くうかびあがらせているが、彼はいまでも、片腕をなくした詩神のひとさし指に導かれ、青黴をしたたらせたペンで、大理石の原稿用紙に詩を書き続けていた。(岩波文庫版)

 「この町」自体が架空の土地であるから、もちろん名指しはされないものの、「賞賛すべき『農業賛歌』の作者」といえばベーリョであり、ベーリョといえば「熱帯地方の農耕」の詩なのである。ベーリョはカラカスの出身だが、そういえばこの前後の街の記述はカラカスを想起させるものだ。詩神の片腕がなくなったりペンから青黴がしたたったりしているのは、建立されてからの時間の経過を示しているのだろう(独立間もない時期か、本人の死後すぐに建てられたようだ)が、それでも大理石には違いない立派な材質の彫像でその業績を讃えられている偉人が、売春宿(第二の灯)や遊園地(第三の灯)、文芸協会(九番目の灯)、フリーメイソンのロッジ(十番目の灯)らに混じって闇の中に浮かび上がっているのだ。郷土の偉人を像によって讃えるのは、近代国家が国民のシンボルを、あるいは地方の共同体がその町や村のシンボルをつくって共同体構成員の心情(ナショナリズム)をまとめようとする行為だ。それがカビにまみれ、遊園地などと等価なものとして光に照らされている様子を描写するカルペンティエールのテクストは、その風景描写がもはやナショナル・アイデンティティを求めてなされるものではなく、ナショナリズムの時代が既に遠い過去のものであることを告げている。同時に、かつて詩人がナショナリズムを醸成した時代があったという歴史をも教えてくれているようだ。
 19世紀ラテンアメリカの風景描写においてもうひとり頻繁にその名が挙がる人物は、アルゼンチンのドミンゴ・ファウスティーノ・サルミエントであり、彼の『ファクンド』(1845)である。後に大統領も務めた(在1868-74)政治家サルミエントが政敵ファクンド・キローガに対するネガティヴ・キャンペーンとして書いた、オリジナルのタイトルを『文明と野蛮』という書のことだ。ここでサルミエントは政敵ファクンドを「野蛮」の側に置いて攻撃するために、彼をはぐくんだ環境を詳述した。ファクンド・キローガをはぐくんだ環境というのが、首都ブエノスアイレスの外に広がる広大な草原地帯パンパと、そこで牧畜を営むガウチョと呼ばれるカウボーイたちの風俗習慣のことで、これらを描いた冒頭の章はことに多大な影響を及ぼしたようだ。この後アルゼンチンではパンパに暮らすガウチョを歌ったガウチョ詩というジャンルが隆盛を見、それがこの国の国民文学に重要な位置を占めるようになるのだが、パンパの風景描写を成立条件とするようなこのジャンルの系譜に近い場所に『ファクンド』は位置づけられる。
 カルペンティエールは『ファクンド』には言及していない。パンパとガウチョを扱っているのだから、これは後に名を挙げるホルヘ・ルイス・ボルヘスの問題関心にむしろ近いだろう。今、取り急ぎ確認しておきたいのは次のことだ。『ファクンド』はヨーロッパとは異なるアルゼンチンの独自性を描こうとした作品だとサルミエント自身は言明しているものの、あまりにも有名な第1章のパンパの描写は、彼自身がそこに行くこともなく、ヴォルネーなどヨーロッパのロマン主義者たちのオリエントへの旅行記を模倣して書いたものだということだ。そのことは林みどり『接触と領有』(未来社、2001)が指摘している。林はさらに、サルミエントがヨーロッパの文物を真似てパンパを描いたのは、それをヨーロッパの人々に読んでもらいたいと思ったからだと明かし、こうした態度に植民地主義の内面化を読み取っている。
 ヨーロッパで受け入れられたいという承認欲求については、いずれ触れるかもしれない。とりあえず今はサルミエントがパンパの情景を描くのにヨーロッパの文物を借用しなければならなかったという事実に改めて注意を喚起しておこう。先ほど風景は発見されるものだと書いたけれども、発見というよりは、むしろ文学作品の中で発明されるものだという事実を教えてくれるからだ。
 実はカルペンティエールの風景描写も、時に他のテクストからの借り物であることも多いのだが、その借用のしかたが実に面白いので、それは後にじっくりと論じることにしたい。今はサルミエントの態度が教えてくれるもうひとつの事実に目を移そう。

言語の発明

 風景描写が他者からの借り物であるということは、風景が文学作品の中で発明されるものであることを示すと同時に、それを記す言語が発明されることをも意味している。サルミエントはフランスの作家たちを模倣して見たこともないパンパを描写したのだから、彼は少なくとも風景描写の言語を翻訳したのであり、スペイン語としてははじめてそれを作り出したのだ。文学作品の成立には対象を描く言語の発明もまた必要なのである。
 それを文体とか作風、記述の様式といった言葉で表してもいいだろう。だが、ここであえて「言語」という語を採用したのは、これら19世紀の作家たちがスペイン語からの離脱を望んだ者たちでもあったからだ。宗主国の言語としてのスペインのスペイン語からの離脱だ。とりわけ独立期の知識人たち、特にここで名を挙げたセルバンド・テレサ・デ・ミエルとアンドレス・ベーリョ、そしてサルミエントの3名はスペイン語と格闘した。テレサ・デ・ミエルはスペイン王立アカデミーの表記法改正によって、たとえばメキシコの国名 México を Méjico と表記するという新たな規範が打ち立てられたのに抗して、メキシコの国名の綴り字に x の文字を残すことを主張した。『アメリカの人々が使用するためのカスティーリャ語文法』(1847/アメリカとはこの場合、スペイン語圏のアメリカのこと。また、カスティーリャ語とはスペイン語のこと。通常は『カスティーリャ語文法』と呼ばれる)という本を書いた文法学者でもあるアンドレス・ベーリョは、スペイン・アカデミアとは異なる表記法の体系を提示している。一時期ベーリョと同じくチリに滞在して、論争を交わしたこともあるサルミエントも独自の正書法を提案した。それぞれ自身の立場からアメリカ大陸のスペイン語の確立を目指したのだ。彼らにとってスペイン語は、ひとつの言語にして異なる複数の言語なのだ。
 ベーリョやサルミエントの正書法は短期間しか採用されなかったが、メキシコはその後も、他のスペイン語圏の習慣に反して自国を México と綴り続けているし、今ではスペインのアカデミアも現地語主義を採り、例外的に México の綴りを認めている。ガブリエル・ガルシア=マルケスは1997年、世界のスペイン語学者を前にして正書法の変革を訴えた(「言葉の神の捧げるべく海に投げ込まれた瓶」『ぼくはスピーチをするために来たのではありません』所収、木村榮一訳、新潮社)。これを綴り字のミスが多いと指摘されたことのあるガルシア=マルケスの開き直りと取るのは、シニカルに過ぎる見方だろう。彼はここで、ベーリョやサルミエントらを想起しているのではあるまいか。
 『失われた足跡』第3章第9節では、宿泊先のラジオから流れてきたベートーヴェンの交響曲第九番を聞き、「わたし」が父を回想する。管楽器奏者の父は第一次世界大戦を逃れるためにアンナ・パヴロワのツアーに同伴して新大陸にやって来て、そこで楽器店を営んだ。その後、北米に移住して同じく楽器店を経営していた。彼はしかし商品の指揮棒を取り出して第九に合わせて振り、ヨーロッパを懐かしんでばかりいた。そんな父のヨーロッパへの賛辞を聞いて育った「わたし」は父の死を機にルーツを求め、「もうもどることはあるまいと思いながら」渡欧するのだが、「父が教えてくれたのとはいちじるしく異なる現実と直面することになった」という。ここで「わたし」が直面した現実とは、「人々の意識は「第九シンフォニー」にむけられるどころか、にわかづくりの凱旋門の下を、あるいは古代の太陽の象徴によってけばけばしく飾られたトーテムポールの下を通る、分列行進にくぎづけになっていたのだ」というのだから、ナチスの台頭と戦争に向かおうとする殺伐とした時代の空気という、特殊時代的なものではあろう。けれども、「エラスムスの微笑、『方法序説』、人文主義的な風潮、ファウスト的な渇望、そしてアポロン的な精神といったものを求めていた憧れの場所」で「わたし」は、「父の追想していた世界と、自分がまのあたりにした世界とのあまりの懸隔に驚き、憤懣やる方ない思いにかられ、心の底では傷ついていた」とも言っているのだから、「わたし」はヨーロッパ文化の退廃に腹を立てているのだ。結局、「鉄のなかにとけこんだきまり文句、削除された書物、そして教授のいなくなった大学などにうんざりしたわたしは、来た道をひきかえすつもりで、ふたたび大西洋に近づいた」としてアメリカに戻ることになる。
 ヨーロッパ文化への幻滅とそれに対置すべきアメリカ大陸の文化を発見する態度は、後に詳しく見るように、カルペンティエールの創作態度の根幹にある。しかし、これが宗主国への隷属状態を断ち切った旧植民地、すなわち19世紀の独立間もないラテンアメリカの国々の精神とほぼ同質のものであることも想像に難くない。そして「文化」を支えるのが言語であるならば、その言語すらもヨーロッパ(この場合、スペイン)のものを否定して独自の、独立した、別個の言語として措定する必要があるだろう。独自のものといっても、たとえば先住民の言語を文学言語として操ることのできない彼らは、スペイン語の独自性を訴えなければならないはずだ。19世紀の知識人たちが言語的独立を図ったのは、そういうことであるだろう。そして、彼らと同じ身振りを見せるカルペンティエールもまた、言語の独自性を主張してもいる。
 『春の祭典』(1978/拙訳、国書刊行会、2001)はキューバ人エンリケとロシア人ベラの革命や戦争に翻弄された波乱の人生を、それぞれが交互に語る小説である。独裁者に反対する運動に加わったために国にいられなくなったエンリケが、メキシコを経由してヨーロッパに到着したときの印象は、自分がよそ者だとの感覚だった。

それもアメリカからの船がラ・コルーニャに立ち寄って停泊してからずっとだった――僕の祖父はそこで生まれたというのに。僕はスペインの言語に対してよそ者の感覚を覚えたのだが、キューバやメキシコでと同程度には乱れた話し方で話されていた――しかし、二十世紀の今日、いったいどこで正しくカスティーリャ語が話されているのか、知りたいものだ――だけでなく、僕の国で、世代が進むにつれていっそう遠ざかるように思える母性を持った「母なる祖国」からやって来たあらゆるものを愚弄するために生み出された笑い話や風俗喜劇(サイネテ)と分かち難く結びついた、ゴツゴツとしたアクセントが目立っていたのだ。(『春の祭典』、( )内はルビ)

 この引用の前後でパリに対する違和感を語るエンリケは、その違和感がスペインのラ・コルーニャ(ア・コルーニャ)で下船して以来のことだといい、その根源にスペイン語の差異を置いている。つまりエンリケは言語的局面において異国へとやって来たのだ。彼はもはやスペイン語を単一の言語とは考えていない。
 ヨーロッパの文化への違和感と言語への違和感。これを表明している小説の人物たちがたぶんにカルペンティエール自身の自伝的要素を反映した人物であるし、何よりエッセイや講演などで作家自身が同様の感覚を表明しているので、これは彼の意識でもあるだろう。独立期知識人の言語的独立を願う思いは、このように20世紀半ばまで伝わっている。カルペンティエールや、そしてガルシア=マルケスは、ある意味で、独立期の問題関心の射程内にいる。
 ラテンアメリカ各国が独立から百年近く経ち、世紀の転換点を迎えるころに勃興したモデルニスモと呼ばれる詩の潮流は、時にラテンアメリカ文学の真の独立と論じられることがある。旧宗主国のスペインにも飛び火し、影響を与え合う関係が逆転したという意味でも真の独立だったのだろう。文学の独立は同時に文学言語の独立でもあって、モデルニスモ以前と以後ではスペイン語が一新されてしまったとも言われる。こうした見方も、文学が成立するには言語が成立していなければならないという条件を暗に前提としていればこそだろう。
 事後的にこの潮流の先駆者とされたホセ・マルティ(キューバ、1853-1895)は思想家として紹介されることが多いし、レオポルド・ルゴーネス(アルゼンチン、1874-1938)はボルヘスの先輩格の短篇作家として日本には紹介されているが、この潮流の代名詞であり、ガルシア=マルケスをはじめ日本でもなじみの作家たちにも引用されることの多いルベン・ダリーオ(ニカラグア、1867-1916)があまり紹介されていないのは残念だ。同郷のセルヒオ・ラミーレスの1998年の小説『海がきれいだよ、マルガリータ』(この小説自体がダリーオを扱ったもの)のタイトルになった詩行で始まる「マルガリータ・デバイレへ」がかろうじて絵本になっているくらいだ(ムリエル・フレガ絵『マルガリータ』ひろかわかずこ訳、新世研、2002)。ちなみに、この詩はごく最近の例ではカルラ・スアレス『ハバナ零年』(2011 / 2016 / 久野量一訳、共和国、2019)に引用されている。
 しかし、ところで、文学的独立を勝ち取ったとされるモデルニスモの大きなうねりを作ったダリーオがやったことは、自身がまだ行ったことのなかったパリやその他の外国の情景を描くことと、フランスの主に象徴主義の詩人たちを範として、フランス語の韻律なども採り入れながらスペイン語の詩を書くことだった。サルミエントがフランスのテクストを模倣してアルゼンチンの風景を描き、スペイン語の正書法を変えることを提唱することによって独自性を示そうとしたことと並べて考えると、彼らを隔てる半世紀ばかりの時間の間に何が変化したのかがわかる。両者はそれぞれの方法で風景と言語を発明した。しかもフランスをはじめとするヨーロッパの文学に頼って。その点では両者の振る舞いは似ている。しかし、その発明法や描く対象が異なっていただけだ。

ニューヨークを描く

 モデルニスモを代表するルベン・ダリーオはパリに行かずしてパリを描いた。しかし、モデルニスモの先駆者ホセ・マルティはニューヨークに滞在してニューヨークを描いた。1881年から10年ばかりニューヨークに住んだマルティは、近代化の最前線たるこの街の風俗習慣について多数のコラムを書き、ラテンアメリカの様々なメディアにそれを寄稿している。それらのコラムでニューヨークの近代化を可能にしたテクノロジーに驚嘆し、しかし、その結果として去来する大衆文化に愛の不在を見出して嘆いたマルティは、その「愛」を「我々ラテンアメリカ」の属性として作り出した。愛に満ちたラテンアメリの人々を発明してみせたのだ。
 パリであれニューヨークであれ、世紀初頭・独立期の作家たちと異なり、モデルニスモの詩人たちは外国を描いた。ドイツの美術評論家フランツ・ローは「描く対象が違えば流派が違う」(「魔術的リアリズム」)と端的に指摘した。パンパや自国の農作物を描いた独立期の作家たちがナショナリズムという流派に属しているなら、外国の情景を描いたモデルニスモの詩人たちはラテンアメリカ主義とでも言うべき流派に属しているのである。つまり一種の拡大ナショナリズムとしてのラテンアメリカ主義が、モデルニスモの詩人たちによって産み出されたのだ。それが私がかつて『ラテンアメリカ主義のレトリック』(エディマン/新宿書房、2007)で示したことだった。
 そう考えると、『失われた足跡』の主人公「わたし」がかつてヨーロッパに失望したことだけでなくニューヨークにあって疎外感を感じながら生きているという冒頭の設定の意味も自ずと明らかになるだろう。私はラテンアメリカ主義のひとつの結末として私たちが「ラテンアメリカ文学」なるものをある種の実体のように受け入れることができるのだと結論した。『失われた足跡』はニューヨークに疲弊し、ラテンアメリカで本来の生を取り戻す人物を描くことによって、マルティ的論法の延長線上において「ラテンアメリカ文学」として成立しているのである。私たちが論じる意味での「ラテンアメリカ文学」の先駆的な作品であるゆえんだ。

ふたたび通りに出たわたしは、バーを探していた。もし一杯の酒にありつくのに、長いあいだ歩きまわらなければならないとしたら、わたしはすぐにも抑鬱症におそわれたことであろう。毎日の朝食に好きなパンや肉を選ぶ自由さえ、わたしにあたえないような他人の意志に、いつも支配されているこの生において、なにも変えることができずにいらつきながら、出口のない部屋に閉じこめられているような気持ちになる、かつて何度も経験したあの抑鬱症に(岩波文庫版)。

 妻とのすれ違いの生活に倦み、本屋のショーウィンドウに女優である妻の写真の載った本を見出して本当は彼女を求めていたのだと自覚し、さらにさまよっていた「わたし」の心情の描写である。突然の雨が降り出したので、雨宿りのために入ったあるコンサート・ホールを抜け出した「わたし」は、酒でも飲まないことには「抑鬱症」に襲われると感じるほどにニューヨークの街に疎外感を感じている。彼がホールから抜け出したのは、オーケストラが自分の挫折を思い出させるベートーヴェンの第九を練習中だったからだし、旅先の宿では聴けるようになり、父を思い出しさえしたその曲をこの場面では拒絶したからこそ、こうしてさらに街をさまようことになったのだった。この直後、偶然にも恩師に出会い、楽器探索の依頼、ラテンアメリカへの旅の依頼を受け、物語が発動したことは実に象徴的である。かくして『失われた足跡』はニューヨークに愛の不在を嘆いたホセ・マルティの論法に乗じているのである。
 こうして見てくると、カルペンティエールの『失われた足跡』はブームの先駆け、新しい小説の始まりのひとつとされているわりに、自然の描写、スペインの言語への反発などにおいて19世紀独立期の作家たちのようでもあり、ニューヨークを描き、その欠落をラテンアメリカにおいて埋めるという意味でモデルニスモの詩人のようでもある。どちらにしても極めて19世紀的な問題関心の圏内にあるように見える。はたしてただ19世紀的なだけなのだろうか? もちろん、そんなはずはないのである。ここではただ、独立期から連綿と続いてきた問題関心と、その上に成り立つラテンアメリカ文学の成立条件を確認したのだが、次回は、この条件を前提としてはじめて見えてくるこの作品の新しさ、ブームの作品との通底性について考察する予定である。

プロフィール

柳原プロフィール写真_丸

柳原孝敦(やなぎはら・たかあつ)
1963年、鹿児島県名瀬市(現・奄美市)生まれ。東京外国語大学大学院博士後期課程満期退学。博士(文学)。東京大学教授。著書に『ラテンアメリカ主義のレトリック』、『劇場を世界に——外国語劇の歴史と挑戦』共編著(以上、エディマン/新宿書房)、『映画に学ぶスペイン語』(東洋書店)。訳書にアレホ・カルペンティエール『春の祭典』(国書刊行会)、フィデル・カストロ『少年フィデル』、『チェ・ゲバラの記憶』監訳(トランスワールドジャパン)、ロベルト・ボラーニョ『野生の探偵たち』共訳、カルロス・バルマセーダ『ブエノスアイレス食堂』、(以上、白水社)、セサル・アイラ『文学会議』(新潮社)、フアン・ガブリエル・バスケス『物が落ちる音』(松籟社)ほか。近刊に『テクストとしての都市 メキシコDF』(東京外国語大学出版会、11月11日に発売予定)。

「亜熱帯から来た男」過去の記事

第1回 ラテンアメリカ文学との出会い

第2回 古本屋のオヤジにも喫茶店のマスターにもなれなかった

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