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【試し読み】川野芽生「水墓」(『月面文字翻刻一例』より)

書肆侃侃房 web侃づめ

川野芽生「水墓」

 波紋が墓標であることを渡守は知らないらしかった。鳥の嘴なり、舟の櫂なり、飛び上がった魚の尾鰭なりに敲かれれば、みさかいもなく水面は波紋を立てるものだと思っているらしかった。私はかれを真新しい湖へ連れていった。湖は誰の躰をもくぐったことのない澄んだ水を湛えていた。岸が見えなくなるところまで、渡守に舟を出させた。舟は波紋ひとつない鏡のような水の上を、波紋ひとつないまま滑っていった。ここでは誰も死んだことがないからだと私は告げて、一羽の鵜をとらえた。鵜を縛って湖に落とすと、その足搔きが沈み込みながら水を揺らし、鳥の姿が見えなくなった後にかすかな波紋だけが残って、それもやがて静まった。私が促すと、渡守は櫂で水面に触れた。鵜を沈めたところにだけふたたび波紋が立った。渡守はそれをじっと見て、それから、櫂を手から放した。櫂は波紋を立ててまっすぐに水の暗さの中に落ちた。私たちと私たちの舟は、みずからの墓標のように湖の上に立ち尽くした。

川野芽生『月面文字翻刻一例』(書肆侃侃房)より


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『月面文字翻刻一例』
川野芽生

四六判、上製、224ページ
定価:本体1,700円+税
ISBN978-4-86385-545-8 C0093
装丁 ミルキィ・イソベ+安倍晴美(ステュディオ・パラボリカ)

誰もが探していたのに見つからなかったお話たちが、
こうして本に育っていたのをみつけたのは、あなた。

────────円城塔

第65回現代歌人協会賞を受賞した歌集『Lilith』など、
そのみずみずしい才能でいま最も注目される歌人・作家、川野芽生。
『無垢なる花たちのためのユートピア』以前の初期作品を中心に、
「ねむらない樹」川野芽生特集で話題となった「蟲科病院」、
書き下ろしの「天屍節」など全51編を収録した待望の初掌編集。

2022年10月全国書店にて発売。

【著者プロフィール】
川野芽生(かわの・めぐみ)
1991年神奈川県生まれ。東京大学大学院総合文化研究科在籍中。2017年、「海神虜囚抄」(間際眠子名義)で第3回創元ファンタジイ新人賞の最終候補に選出される。2018年、「Lilith」30首で第29回歌壇賞を受賞し、2020年に第一歌集『Lilith』(書肆侃侃房)を上梓。同書は2021年に第65回現代歌人協会賞を受賞。2022年、短篇集『無垢なる花たちのためのユートピア』(東京創元社)を刊行した。

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