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【試し読み】川野芽生「塔」(『月面文字翻刻一例』より)

川野芽生「塔」

 こんなお話があるわ。龍退治の勇者のお話。とっても短いんだけど。
 ここが人の踏み入らない、荒れ果てた土地だと思ってね。好きなのを思い描いていいわ。そしてここに一つの石の塔があるとするでしょ。何もない、木も生えていない中に、一つだけとても高い塔が立っているの、灰色の、そうね円筒形の塔、とても古くて、永いこと人間なんて住んでいないのは確実だなという感じがするわ。少しだけ傾いていて、でもほとんど崩れていないの、崩れているとかじゃなくてただ何か根本的に、人間の住むものじゃないような感じがするのよ。どれだけ時間を遡ってもここに大勢の人々が生活していたことなんてなかったようにしか思えない、いつだってこの塔は変わらずに、こうしてあったように思える。そういうたぐいの塔。強いて言うと、はるかな昔に巨人が立てたものみたいな。少なくとも私たちにはそういうふうに見えるし、目はこれだけしかないんだから。目を近づけてみると、一つ一つの石の形がよく揃っているのが分かる。今では忘れ去られてしまった山脈やまなみから切り出してきたものかもしれない、とあなたがたは思ったりする。その山脈に好きな名前をつけてもいいの。苦しみとか、忘却とかね。一つ一つの石は、恐ろしい重さと、恐ろしい時間に堪えながら、壁に塗り込められている。石に言葉がなくてよかったな、とあなたがたは思う。石に言葉があったら、身動きのできない分のありったけのエネルゲイアを言葉に換えてしまって、私たちは気を失うしかなくなってしまうでしょうね。それか、言葉の環の中に永遠に閉じ込められてしまう。そんなことになったら、それはそれで別のお話になってしまうから、そんなに顔を近づけてはだめ。
 顔を上げると、視界に一つの人影が映る。周りに何もないから、すぐに分かるわね。こちらへ近づいてくる。一人の男の子。確実なのはおそろしい苦労の跡が全身に刻み込まれていること。この荒野をはるばる越えてきたのだから。はじめはどんな服装をしてきたにせよ、今は見る影もない。顔もひどく汚れているはずよ。それから武器も持っていないといけない。一番ありそうなのは剣かしら。それも、新しくて小綺麗なのじゃなくて、先祖代々伝わってきたような、古くて、何度も何度も血に染まってきたようなのだと思わない? ひきずるように大きな剣。だとして、剣を引きずるくらいの男の子。そんな男の子の姿を見たら、あ、これは勝ち目がないな、とあなたがたは思うかしらね。疲れきって。まだ子供みたいな。
 そのほかは好きなふうに思い描いていいのよ。王子様が好き? それとも従騎士、あるいは孤児、徒弟、なんでもいいわ。誰にしたって、勝ち目がないことには変わりがないんだもの。
 ほら、段々近づいてきて、顔も見えるようになった。もっとよく見てみる? その顔に満ちているのは何だと思う、勇気なの? 恐れなの? 思い上がりなの? 彼は夜の炉端で、龍を倒した勇者のお話をたくさん聞かされて育ってきただろうか、とあなたがたは想像する、あるいは真夜中、横になったまま目を開けて、使命に失敗して命を落とした大勢の勇者のお話を想像していただろうか。
 見えているのは横顔なの。彼は塔を見上げているわ。この塔を目指してはるばるやってきたんだもの。遠くからでも、この塔はよく目立ったに違いないわ。――そう、塔に窓をつけるのを忘れていたわね。石の壁に、細くて高い窓を開けていってね。地面に近い方から、天辺に向かって順番に、幾層も幾層も。男の子が見上げているのはそのうちの一つ、天辺に近いところの窓。そこから女の子が身を乗り出しているのが分かる? 男の子からは、豆粒くらいにしか見えないわ。女の子からも、男の子は豆粒くらいにしか見えない。あれが、彼が救い出しに来た女の子。
 どういう女の子かは、好きなふうに思い描いていいのよ。お姫様でも、召使でも、羊飼いでも。ただ周りの人々に愛されながら、何の問題もなく静かに日々を送っていた女の子だと、言う人もあるかしら。幸せになることを約束されていたような、という言い方をするかもしれない。その日常の中へ龍は突然姿を現して、何もかもを滅茶苦茶にし、周りのすべてのものを傷つけ、人を殺して、あの子をさらっていった。そういうお話なのよ、これは。
 彼女は身を乗り出して、何か叫んでいる。助けて、と言っているんだと思う? そうじゃないわ、聞こえないの? 逃げて、と言っているのよ。私のことは大丈夫だから、あなたはここから引き返して。もう誰かが死ぬのは見たくないのだ、と、そうね、そういうことを。
 それを聞き入れて男の子が引き返したら、話はここで終わりなんだけど。そういうお話もあるでしょうね。でもこのお話はそうじゃないの。男の子はこの場に留まるのよ。もしかしたら聞こえなかったのかもしれないわね、塔はあんなに高いんだもの。だから、龍が出てくるところまで話を進めなければいけないわ。
 さっきまで一体どこにいたのかしら。龍はとても大きいの。いつの間にかあの石の塔の周りに体を巻きつけて、こちらを見ているの、頭はほとんど塔の天辺と同じくらいの高さにあるわ。目を見てはだめ、二度と目を逸らせなくなってしまう。そうしたらお話はここで終わってしまうことになるわね。
 体は銀の色の鱗で覆われている、しろがねの底に青色の焰が揺れている、湖の底で、花をつけた長い長い藻が一斉に揺れているように。湖の底を覆う藻は、何かを招き寄せるように絶えず手を振っているの。みんな同じ動きをする。そして月に誘われて花をつける。鱗の一枚一枚がそんな月面なの、そして月を映した水面なの。一枚一枚の鱗に、それぞれ違う季節の風が漣を立てて、それぞれ違う世界の月の光が穴を開ける。その鱗はしろがねのように硬い。星のように固い。男の子の持ってきたつるぎは、傷をつけることさえできない。近づくこともできないわ。龍が吐く焰を避けるだけで精一杯。龍の焰は冷たいの、そのせいで辺り一帯は常に焼け焦げている。龍は細く口を開けて、ひそかな溜息を洩らすように、奥の方から息を押し出すの。死んでゆく星に向かって、そっと息を吹きかけるようだなとあなたがたは思う。それが空気に触れると青白い焰になる、水が凍るように、あるいは氷が溶けるように。そして我先にと溢れ出してくる。複雑な流れを形作って。焰を透かして見える景色が、ほんの一瞬虹色を帯びて目に映る。ここには草も生えることがない。存在を許されているのは石の塔だけ。龍の焰が石の表面を舐めると、石たちは目を閉じる、石たちは一瞬透明になったように見える。男の子は塔の陰に隠れて、焰の走る石の表面を見守っている。人の体が真っ白い骨になり、それが更に焼かれてさらさらした砂になってしまうところをあなたがたは想像する。彼もきっと同じことを考えている。
 ここで終わってしまうお話もあるわ。でもなぜだか、このお話はそうじゃないの。彼が疲れ切り、もうほとんど動けなくなった時に、追い詰められてもう逃げられなくなった時に、どこからか溜息のようなものが聞こえてくる。そして龍は突然身を翻し、男の子の目の前で、まっすぐに天に向かって昇り始める。真っ白な龍の腹部が曝け出される。目の前で大きな滝が逆流していくように見える。視界がそれでいっぱいになって、時間も空間も失ってしまったようにくらくらする。その時、男の子は力を振り絞って剣を握り直す。硬い鱗に覆われていない体の一点が眼前を通り過ぎようとする。そこに、力の限り、重い剣を突き立てる。
 叫び声が聞こえる。龍の断末魔なんて、想像しろと言っても無理があるわね。このお話のことを考えるとき、私は時々思うの、それは世界中のすべての音楽がその中に含まれてしまうような叫び声なんじゃないかって。
 男の子は身を翻して石の塔に駆け込む。石の螺旋階段を駆け上がる、いくつもいくつも。女の子のいた部屋はとても高い場所にある、でも男の子は息切れしながら、立ち止まらずに登っていくの。足の下で、古い石たちが古い音を立てる、古い空間の中で音がこだまする。そして、女の子のいた部屋の外に辿り着く。その部屋の中に何があったかは、あなたがたの想像しているとおりよ。
 男の子が扉を開けると、中では女の子が血を流して倒れている。男の子は茫然として、戸口で立ち止まり――もしかしたら、女の子に駆け寄ることもせず、まっすぐあの窓の前に立ったかもしれない。その窓から見えたのは何だったのだと思う? 荒野だったのだとあなたがたは思う?

川野芽生『月面文字翻刻一例』(書肆侃侃房)より

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『月面文字翻刻一例』
川野芽生

四六判、上製、224ページ
定価:本体1,700円+税
ISBN978-4-86385-545-8 C0093
装丁 ミルキィ・イソベ+安倍晴美(ステュディオ・パラボリカ)

誰もが探していたのに見つからなかったお話たちが、
こうして本に育っていたのをみつけたのは、あなた。

────────円城塔

第65回現代歌人協会賞を受賞した歌集『Lilith』など、
そのみずみずしい才能でいま最も注目される歌人・作家、川野芽生。
『無垢なる花たちのためのユートピア』以前の初期作品を中心に、
「ねむらない樹」川野芽生特集で話題となった「蟲科病院」、
書き下ろしの「天屍節」など全51編を収録した待望の初掌編集。

2022年10月全国書店にて発売。

【著者プロフィール】
川野芽生(かわの・めぐみ)
1991年神奈川県生まれ。東京大学大学院総合文化研究科在籍中。2017年、「海神虜囚抄」(間際眠子名義)で第3回創元ファンタジイ新人賞の最終候補に選出される。2018年、「Lilith」30首で第29回歌壇賞を受賞し、2020年に第一歌集『Lilith』(書肆侃侃房)を上梓。同書は2021年に第65回現代歌人協会賞を受賞。2022年、短篇集『無垢なる花たちのためのユートピア』(東京創元社)を刊行した。

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