【試し読み】犬養楓『トリアージ』Part.2
現役の救急科専門医で、新型コロナウィルス禍の医療現場を詠んだ歌集『前線』を出版したことでも話題になった著者による初小説『トリアージ』が10月下旬に刊行されます。コロナ重症患者治療を担う医療施設での、救急救命の現場がリアルに描かれています。第6波の発生を何とか回避したい今だからこそ読みたい小説です。
こちらの試し読みでは、本書の冒頭部分を二週にわたり連載します。(第一回:10月7日、第二回:10月14日)
(『トリアージ』冒頭部分より試し読み Part.1はこちら)
「瀧村先生ですか? ドクターカーの準備ができました。救急外来前に停まっています」
転送の書類一式を持った事務員が、近寄るなり話しかけてきた。
「ありがとうございます。では、出発しましょう」
瀧村は平岩の病室の前にいた記録係の看護師に声をかけ、搬送の準備ができたことを伝えた。看護師がわかりましたと頷いて、病室の中の防護服を着た看護師にガラスを叩いて合図する。別の事務員によって、ドクターカーに収容して搬送するためのストレッチャーが病室の前に運ばれてきた。
瀧村は部屋の外で防護服に身を包み、ガラスの窓に自分の顔を映して、帽子やマスクがちゃんとフィットしていることを確認した。家に帰ったらもう一度シャワーを浴びないといけないなと思いながら、顔全体を覆うフェイスガードを装着した。
扉の前で大きく息を吸い込んで、扉を開けて素早くストレッチャーを押して病室に入る。もう何度も新型コロナウイルス患者の病室には入っているが、毎回ダイバーのように潜水している気持ちになる。それは南国の海を熱帯魚と泳ぐダイバーではなく、濁った川のなかで要救助者を救助するダイバーに近い。普段は息をすることなど無意識だが、この空間の中では自分の息のリズムや深さに否応なしに意識が向く。すると、普段何気なく行っている呼吸が急にしづらくなるように感じられるのだ。吸って吐く、その繰り返しの単純な作業がなぜか突然吸った後に再び吸ったり、吐いた後に吸うのを忘れたりする。正直に言えば、上手に呼吸しないとウイルスを吸い込むような気がして、そのプレッシャーが普段通りの呼吸をさせてくれないのだと思う。こんなことがかれこれ半年以上続いている。
「準備ありがとうございます。今から出発です」
瀧村が病室内の看護師に声をかけた。
「いつでも大丈夫です」
そう応えた看護師の胸には三島と大きな字で書かれていた。
「では行きましょう」
瀧村は患者がつながれている病室の人工呼吸器を一旦外し、移動式の簡易人工呼吸器に付け替えた。後から記録係の看護師も防護服を着て病室に入ってきた。
瀧村が平岩の頭元、看護師二人が左右に立つと、患者につながれているすべてのデバイス、例えば点滴や動脈圧ライン、尿バルーンなどが移動の際に引っかからないかをまずチェックする。チェックが終わると「1、2、3」の合図で平岩の体は宙に浮き、真横のストレッチャーに移された。
「さあ、行きましょう」
瀧村が簡易モニターを左手に持って右手でストレッチャーの頭側を押す。一人の看護師は生命維持装置の人工呼吸器を運び、もう一人はストレッチャーの足側を持って、舵取りをする。移動の際も必要最低限の人数でと決まっている。この三人で四階のICUから一階の救急外来前まで安全に患者を運ぶことになる。距離にして百メートルほどだとは思うが、気は抜けない。
聞いた話だが、過去にはエレベーター内で人工呼吸器と挿管チューブの接続が外れ、エレベーター内でウイルスが拡散したインシデントや、ストレッチャーの車輪に点滴のルートが絡まって、針が抜けシーツが真っ赤に染まったアクシデントなど、数えきれないくらい報告がされているという。重症患者になればなるほど、患者の体についているデバイスが多く、移動前には整理されていたルート類も、百メートルもあればストレッチャーからはみ出してどこかに絡まる恐れが十分に出てくるのだ。
ICUを出ると、一階行きのエレベーターがすでに口を開いて、三人と患者一人を待っていた。なるべく振動が患者に伝わらないように静かに乗り込むと、「閉」のボタンが押された。押されたボタンはこの後誰かが消毒することになっている。
一階まで降りる間に、モニターから突然警告音が聞こえた。血中酸素飽和度の正常下限を知らせるアラームだ。呼吸器設定を確認したが、搬送前と同じだ。この設定の値から察するとかなり高い圧力で酸素を送り込んでいる。それだけ肺の状態が悪いということだ。移動式の簡易人工呼吸器では、やはり備え付けの人工呼吸器と比べるとその高い圧力を正確にかけることが難しい。そのために体内の酸素飽和度は正常ギリギリに落ちているのだろう。
平岩自身は鎮静薬が効いているので、患者が息苦しそうな素振りをすることはない。
エレベーターが一階に着いて、扉が開いた。
「行きましょう」
この酸素飽和度の値は経過観察をするという意味も込めて、瀧村は号令を出した。
エレベーターを出ると、救急外来は廊下を突っきった先にある。この移動のために、事務員が交通整理をしているので、救急外来の入り口からドクターカーが停まっている救急搬送口までは、人の出入りがない。
ルート類に注意しながら、搬送口までストレッチャーを三人で押した。救急搬送口を出ると、広いローターリーに一台の四角い大きなバンが停まっていた。赤色灯をつけ、側面に能勢医療センターと斜体で書かれている。車の後方では排気ガスが白い煙となって地面を這い、ドクターカーの存在感を際立たせていた。
後部ドアが縦に開くと、三人で力の限りストレッチャーを押し込み、ドクターカーの車内へ患者と一緒に乗り込んだ。最後にもう一度ルート類を整理し、人工呼吸器を車内に設置されているものへと再び付け替えた。
運転は事務員が行い、後部座席に同乗する医療スタッフは瀧村と三島看護師一人だ。病院に残る看護師が、「行ってらっしゃい、気を付けて」と言って後部ドアをバタンと閉めた。大きなドアが思いっきり閉められたが、マスクとフェイスシールドをしているためか、その風圧を感じることはなかった。
「では、島本総合医療センターに向けて出発します」
運転手がシートベルトをして、前方の安全を確認する。
「お願いします」
瀧村の声で、ドクターカーはゆっくりと動き出した。病院の敷地を出ると、夜の街を切り裂くようにサイレンが鳴らされた。
瀧村は頭元の小さな椅子に座りながら、患者の様子と車内の設備を交互に見た。
ドクターカーはハイエースをベースにした緊急車両で、運転席と助手席の後ろの空間がかなり広い。そこに救急車と同じく右の壁際に患者を搬送する折り畳みストレッチャーが固定されて、ベッド代わりとなっている。その頭元に医療スタッフが座る席がある。右の壁際には、人工呼吸器や生体モニター、除細動器などの医療装備と、いくつかの引き出しがある。引き出しには「気道確保」「ドレナージ物品」「外傷処置」などと書かれたシールが貼ってあり、それぞれの治療目的に応じた医療機器が収納されていた。ドクターカーは本来、医師を乗せて傷病者にいち早く接触するために設けられた車両である、そこで必要最低限の治療を行うことがあるため、救急車以上に緊急処置用の医療設備を備えているのだ。
車内の時計を見ると午後十一時を過ぎていた。後部座席の窓に掛かったカーテンの隙間から一瞬外をのぞくと、辺りに他の車はほとんど走っていなかった。今頃この街の人は、テレビでも観ながら家でゆっくりとくつろいでいるのだろうか。
市街地を抜けると、ドクターカーは料金所を突破して高速道路に入った。高速道路を走る振動で、患者の体が小刻みに揺れている。
生体モニターを見ると、通常の心電図の波形と、車の振動によるノイズが重なって、正確に心拍数が出ていない。その下の血中酸素飽和度も振動の影響を受けやすく、測定中の表示が繰り返し出ている。瀧村は患者の首筋に自分の人差し指と中指を当てた。規則正しい頸動脈の拍動が感じ取れる。心拍数も80程度だろう、問題なさそうだ。
しばらくモニターを見つめていると、血中酸素飽和度の値が出た。青色で記されたその値は85だった。モニターのアラームが車内に響く。
「85、低いですね」
患者の横に座っていた三島看護師が言った。
「出発前は正常下限ぐらいありましたよね。振動でうまく測れていないのかな」
瀧村はアラームを一旦止めて、その値の推移を見守った。両手の手袋の裾を持って指先がフィットするように付け直すと、びっしょりと手汗をかいているのがわかった。
青色の数字は85から83、82と緩やかに落ちていく。
「先生、これって本当の値じゃないですか」
三島が不安そうに瀧村のほうを見た。平岩の顔を見ると、血色が悪くなっており、特に唇には少しチアノーゼが出ていた。
「本当ですね、どうしてだ?」
平岩の体に低酸素血症の症状が現れている。確かに全身に酸素が足りていない。瀧村は人工呼吸器を見た。電源もついているし、正確に作動している。ということは患者側の要因ということになる。
「三島さん、ジャクソン・リースを出してください」
三島は壁の引き出しから、ジャクソン・リースと呼ばれる人力の人工呼吸デバイスを出して、瀧村に渡した。これを患者に接続すると、バッグ部分を揉むことで人工呼吸器と同じく患者に酸素を送り強制的に呼吸させることができる。強くバッグを何回か揉むが、モニターの酸素飽和度は上がらない。それどころか81、79、76とさらに急激に酸素飽和度が下がっている。
「あとどれくらいで着きますか」
瀧村が叫ぶと、十五分ぐらいです、という返事が運転席から返ってきた。
このまま十五分は、もたない。
いくら酸素を強く投与しても、酸素飽和度が改善してこない。
バッグを揉む手にさらに力が入る。
肺が一気に悪くなったのか。いや、それにしてもあまりに急すぎる。
何だ、何が原因なんだ。瀧村は患者の全身を見渡して考えた。
「先生、酸素飽和度が70を切りました」
時速80キロで走る車内の中で、医者は一人。助けられるのは瀧村しかいない。もう一度強くバッグを揉んで酸素を投与する。酸素がどこかから漏れているような様子もない。
「心拍数も下がって来ていませんか?」
三島の指摘でモニターを見ると心拍数は60台だった。
瀧村はすかさず頸動脈に指先を当てた。弱いが脈は触れる。ここで脈が触れない場合は心臓マッサージを開始しなければならない。首筋を見ると、先ほど脈を測ったときよりも頸静脈が怒張、すなわち腫れるように膨らんでいることに気付いた。そういえば酸素を送るバッグが硬い。バッグが硬いということは、肺に酸素が入りにくいということだ。
瀧村は、平岩の前胸部の病衣を脱がし、呼吸に合わせて胸が上下しているかを確認した。右の胸が上がりっぱなしで、上下運動がない。
「緊張性気胸だ」
瀧村は叫んだ。車内の時間が一瞬止まったようだった。瀧村を見る三島の目が見開いた。
「脱気用の針を!」
試し読み配信は以上で終了です。
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『トリアージ』犬養楓
四六判、並製、312ページ
定価:本体1,500円+税
ISBN978-4-86385-495-6 C0093
人の命に優先順位をつけることが許されるのだろうか
歌集『前線』の犬養楓による、コロナ禍の医療現場の実態を赤裸々に描く初小説。
現役救急科専門医が綴る「命」と向き合う苦悩の日々
新型コロナウイルス感染症の重症患者治療を担う医療施設。
多くの生死が交錯するその現場をリアルに描いたこの作品の世界に没頭していると、小説でありながら、ノンフィクションを読んでいるかのような錯覚にとらわれる。
意思をもたぬ有機生命体であるウイルスと戦う最前線で、いったい何が起こり、医療従事者たちはなにを思っていたのか、この小説を読むことでそれを感じ取れることができるのではないかと思う。
――知念実希人[小説家・医師]
2021年10月下旬全国書店にて発売。
【著者プロフィール】
犬養楓(いぬかい・かえで)
歌人・作家。
1986 年生まれ。
現在、救急科専門医として救命救急センターに勤務。
第63 回短歌研究新人賞候補。
2021 年歌集「前線」刊行。
note:tanka2020
twitter:@tanka2020
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