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【試し読み】犬養楓『トリアージ』Part.1

現役の救急科専門医で、新型コロナウィルス禍の医療現場を詠んだ歌集『前線』を出版したことでも話題になった著者による初小説『トリアージ』が10月下旬に刊行されます。コロナ重症患者治療を担う医療施設での、救急救命の現場がリアルに描かれています。第6波の発生を何とか回避したい今だからこそ読みたい小説です。

こちらの試し読みでは、本書の冒頭部分を二週にわたり連載します。(第一回:10月7日、第二回:10月14日)

トリアージ書影

犬養楓『トリアージ』冒頭部分より


風呂上がりの頭をタオルで拭きながら、瀧村はスマートフォンの着信履歴をチェックした。
この十分間の着信履歴はなく、深く長い息を吐く。よれたTシャツと短パンを履くと、タオルを肩にかけ冷蔵庫を開けた。
ビールやチューハイなどによってほとんど場所を占領された一段目に、三日前に買ったコンビニの揚げ出し豆腐を見つけて手に取った。冷えたビールを開けたいところだったが、その気持ちに蓋をするように冷蔵庫を閉めた。
揚げ出し豆腐を冷蔵庫の上の電子レンジにかけると、瀧村は1Kの部屋には不似合いな、大きな椅子に身を預けた。二年前、この病院に就職するときに買った、割と高いオフィスチェアだ。家では少しでも疲れを溜めたくないので、自己投資だと割り切っている。
スマートフォンでニュースをチェックすると、大阪の新型コロナウイルス新規感染者数は今日も三百人を超えていた。十二月三日に大阪モデルの赤信号が点灯してからも新規感染者数は高止まりのまま推移しており、政府分科会も大阪の第三波の感染状況について注視していると、速報は伝えていた。
「第三波か」
瀧村はスマホの画面を切った。黒くなった画面に、自分の顔が映る。しばらく髪を切っていないので、冷たく濡れた前髪は眼にかかるぐらいの長さまで伸びていた。
その画面が突如明るくなり、スマートフォンが着信音とともに振動する。
画面には「能勢医療センター」の文字。間違いなく病院からの着信だ。
「うわ」とわざと一言呟いて、電話を取った。
「はい、もしもし瀧村です」
「瀧村先生でよろしいでしょうか。医療センターの事務ですが、蜂須賀先生におつなぎしますのでそのままお待ちください」
電話がかかってくると思わなかったと言えば噓になる。だから今日は、風呂に入る時間をできるだけ遅くしたつもりだった。だが、研修医にとって自分のタイミングというのはいつもないに等しい。今日も風呂上りの一番さっぱりした時間に病院からの不吉な電話だ。
「瀧村か? 患者の転送が決まった。病院に来て準備してくれ」
蜂須賀先生はいつも細かいことまで教えてくれない。とにかく「来い」の一言だ。
「わかりました。急いで行きます」
瀧村は電話を切って、洗濯機に入れてあった今日病院へ着ていった洋服を再び取り出した。少し湿っているような気もするが、おかまいなしに袖を通す。どうせ病院まで歩いて二分の距離しか着ない代物だ。ドライヤーで髪を乾かしていると、電子レンジにかけた揚げ出し豆腐のことを思い出した。半乾きぐらいで髪を乾かし終わると、温まった揚げ出し豆腐を再び冷蔵庫に戻した。三日前も実は同じことをしている。
玄関を開けて廊下に出ると十二月の冷たい風を浴びた。もっとしっかり髪の毛を乾かしておくべきだったと後悔しながら、寮のエレベーターに乗り込んだ。

男子ロッカーでユニフォームの青いスクラブに着替えると、蜂須賀のいるICUへと急いだ。医療センター四階の半分ほどを占めるICUには本来三つの入口があるが、そのうちの一つは動線確保のために閉鎖されており、残る二つのうち、一つは感染用、もう一つは通常用の扉である。通常用の扉の右下にある足元の窪みにつま先を入れると、重い扉がゆっくりと横に開いた。
扉が開くと同時に、いくつものモニターが奏でる電子音が、それぞれの患者の心拍数を伝えている。高い音もあれば、低い音が重なることもあり、寄せ集めでできたロックバンドのようにその音とリズムは少し不快に感じられた。
ICUは三方をベッドに囲まれて、中央にスタッフステーションが一段高い位置にある構造である。中央から患者の様子を観察でき、どのベッドに行くにも短い距離で済むようにこの設計になっている。患者から見れば常に監視されている構造をしているわけであるが、幸いこのICUに入室しているような患者で意識がしっかりしている人は少ない。夜間など最小のスタッフの目で多くの患者の状態を把握するにはこの構造が適しているのだ。
蜂須賀はそのスタッフルームのいつもの場所に座っていた。いつもの場所とは患者名と疾患が書かれた大きなホワイトボードが掛かっている柱のすぐ左横、高性能画像モニター二台と最新のCPUが入った蜂須賀専用の電子カルテ端末の前だった。
瀧村が蜂須賀の後ろにわざと気配を出しながら近づいた。
「蜂須賀先生、瀧村です。今着きました」
蜂須賀のキーボードを打つ手が止まった。
「瀧村、研修医なら十分以内に病院に来い」
振り返った蜂須賀が冷笑気味に言った。
「すみません」
腰を九十度直角に曲げ、自分のつま先を見る。上級医への謝罪は研修医なら一日数回のルーティンである。
「まあいい、急変対応じゃないからな」
蜂須賀はそう言って、隣の席の椅子を近づけ、瀧村に座るよう目で合図した。
失礼します、と言って瀧村が座ると同時に、蜂須賀が電子カルテの検索画面に「平岩達子」という名前を打ち込み、その患者の診療記録を表示させた。
「平岩達子、五十六歳女性。コロナ感染九日目。今日の朝から酸素化が低下していて、昼過ぎには酸素5リットル吸入で酸素飽和度90台前半になった」
蜂須賀はレントゲンや採血結果を電子カルテの画面に出し、時系列の検査結果と照らし合わせながら、平岩達子の今日までの経過を説明していった。
「要は、今日重症化したってことだ。本当はうちのICUに入れたいところだが、ご覧の通り感染部屋は満床だ」
ICUの奥の三床、新型コロナウイルス患者用の個室ベッドが埋まっているのが見えた。ちょうど体交の時間なのか、手前のベッドでは看護師が二人組で患者の体の向きを変えている。
「転院先が見つかったのが、午後八時過ぎ。先方から挿管して送ってくるように依頼があった」
「転院先で挿管ではなく、こっちで挿管なんですね」
瀧村が声のトーンを下げて言った。
「コロナ感染の挿管なんて誰もやりたくないからな。でもこの患者の場合は、転院が決まるころにさらに一段階呼吸状態が悪くなって、病状的にも気管挿管が必要になった。それでひとまずはICUの一般用の個室に移して、そこで挿管をした。それが終わったのが、九時過ぎ。それでお前が来たのが十時過ぎってわけだ」
蜂須賀の腕時計の針は十時十分を指していた。
基本的に夜間は人手が少ないので、転送は昼間に行いたいのが本音だが、ウイルスはそんな忖度をしてくれるような相手ではない。そのため夜間に転院搬送となった場合には、あらかじめ決まっているその日の転院搬送担当の後期研修医を家から院内に呼び出し、その研修医が救急車に同乗し転送業務を行うことになっていた。
「転送先は、島本総合医療センターだ。最近ようやくここもコロナ患者を受け入れてくれるようになった。着いたら夜間の転院を受け入れてくれたことに、手厚くお礼を言っておいてくれ」
「わかりました。転送方法は市の救急車ですか」
「いや、市の救急車は今は出動が重なっていて、すぐには用意できないらしい。コロナ患者の搬送にはいろいろと救急車に前処置が必要だからな。今日は特別に、うちのドクターカーで搬送することにした。これから転送が増えることも踏まえて、ドクターカーでの転送を今週から本格的に運用している。人工呼吸器も積んでいるし、一般の救急車よりも楽だぞ」
瀧村は驚いた。ドクターカーなんて一生乗ることがないと思っていた。今は医者四年目、二年の初期研修を終えてから各内科をローテーションする後期研修が始まり、今は本命の呼吸器内科をローテーションしている。新年を迎える翌月からは最後の診療科の救急科を三か月回り、五年目の四月からはこのまま呼吸器内科医になることが既定路線だった。瀧村にとってドクターカーの乗車は少し気分が高揚するのと同時に、上級医のいない移動する病室でもあり、少し心細い思いがした。
「紹介状はすでにファックスしてある。ドクターカーはもうそろそろ準備ができると思うから、患者のカルテを読んで予習しておいてくれ」
蜂須賀はそう伝えると、看護師に呼ばれて別の患者の処置へと席を立った。
平岩達子の病室の前にいくと、ガラス張りの個室の中で看護師が、慌ただしく転院の準備をしていた。点滴のルートを整理し、シリンジポンプを点滴台から外して患者の横に置いている。人工呼吸器の設定や注射薬の流量の数値を最終確認し、個室の外の記録係の看護師に伝え、病室の外の看護師は看護サマリの記載を急いでいた。
平岩は鎮静剤が使用され、ほとんど動くことはない。転院搬送に際しては、しっかり鎮静して意識のレベルを下げておかないと、搬送途中にベッドから転落したりする可能性もあるし、最悪の場合、挿管チューブや点滴を自分で抜かれたりすることもある。
処置する看護師の横からガラス越しに平岩の顔が見える。自分の呼吸をすべて機械に委ねて、集中治療が開始されたその顔には半ば諦めに近い表情が浮かんでいるように見えた。ベッドが大きく見えるのは、平岩の体が小さいからだろう。白いシーツの海に力を抜いて浮かんでいる。
一旦、電子カルテ端末の前に座り直し、平岩のカルテを開く。体重はやはり40キロしかない。幸い大きな基礎疾患はないが、タバコを一日二十本吸っているという嗜好歴が記載されている。ICUでの治療チャートを別画面で開くと、ここで行われた治療の内容が細かく記載されていた。人工呼吸器のサポートがかなり強い設定となっており、それだけ肺の機能低下が急速に進行していることがうかがえた。

Part.2につづく

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『トリアージ』犬養楓

四六判、並製、312ページ
定価:本体1,500円+税
ISBN978-4-86385-495-6 C0093

人の命に優先順位をつけることが許されるのだろうか
歌集『前線』の犬養楓による、コロナ禍の医療現場の実態を赤裸々に描く初小説。

現役救急科専門医が綴る「命」と向き合う苦悩の日々

新型コロナウイルス感染症の重症患者治療を担う医療施設。
多くの生死が交錯するその現場をリアルに描いたこの作品の世界に没頭していると、小説でありながら、ノンフィクションを読んでいるかのような錯覚にとらわれる。
意思をもたぬ有機生命体であるウイルスと戦う最前線で、いったい何が起こり、医療従事者たちはなにを思っていたのか、この小説を読むことでそれを感じ取れることができるのではないかと思う。
――知念実希人[小説家・医師]

2021年10月下旬全国書店にて発売。

【著者プロフィール】
犬養楓(いぬかい・かえで)
歌人・作家。
1986 年生まれ。
現在、救急科専門医として救命救急センターに勤務。
第63 回短歌研究新人賞候補。
2021 年歌集「前線」刊行。
note:tanka2020
twitter:@tanka2020

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