言い方が100 言い方が200

 他人と揉めるのが苦手で、感情的になったり、怒りの雰囲気や言葉を向けるのも向けられるのも苦手だと思っていた。

 自己評価が低く、プライドやこだわりがないと周りに対してはアピールしていたが、実際には他者の言動を毎秒評価して見下していた。
つまり、自分には人を査定する基準や、自分の生理において譲れないものや価値観がかなりあるということだった。
そんな感覚で生活しているので定期的に、自分が大事だと思う相手には、考えたことを伝えたい気持ちになることがある。

 こだわりがあって、揉め事が苦手なので、必然的にどのような言い方をすれば相手に届くのか、怒りを回避しながら一理あることになるのかに注力している。伝える言葉や順序を選んで、なんとか組み立ててことに臨む。

 それでも、間違える。
今日も言い方と伝え方を間違えて、コミュニケーションがうまくいかなかった。
 自分の年齢が立場が上がったということも関係している気がする。
今までと同じ言葉に、言外の意味や圧力が重くかかっている。

 これを修正するのはかなり労力を使うし、大変だ。
この修正が嫌になって、立場に甘んじて機嫌を取ってもらおうとしたり、伝え直すことを放棄した時に、人は、おじさんは老害化していくのだろう。
おじさんなるものへ自分が変貌していくことに恐怖がある僕でも、この、変化の痛みが少ないというわけではない。毎度苦しい修正だ。耐えたいと思うが、いつまで耐えられるかもわからない。

 おじさん化していくことで周りへの影響が変わるのであれば、伝えるときの言い方を考えるだけでは、もう充分ではない。
立場や年次のせいで同じ言葉が伝わらなくなるのであれば、伝わらなかった時に修正する言葉選び、つまり自分に説明するときの言い方も考えるのだ。
「でも自分は悪くない」とか「相手のためを思っていたのだから」で自分を救わない、新しい言葉や言い方を、自分に対してもみつけてあげたい。
それがおじさんとして生きていく上での、必要で新たな枷だ。

 言い方が100以上に、自分に対して考え直すときの言い方がさらに100だ。
言い方煎じ詰めて考えて、うまくいかなかった時に自分を見つめ直すときの言い方が100、つまり言い方が200だ。

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