体罰容認の矛盾と偽善

下記引用は、戸塚氏及び彼に対する批判的思考力の乏しい若者2人の発言より。

>体罰にもうまい・へたがある

確かに体罰にもうまい・へたはあるだろうが、仮に教育の熟達者の「上手さ」が10だとすれば、「体罰の下手な者」は1、「体罰の上手い者」は2であるに過ぎない。このように、自己評価を上げるために基準を低く設定するのが体罰容認者。自分に甘く指導・教育の下手な者ほど、体罰を必要とする。
運転が下手な者は運転してはいけない。教育も同じ。

>体罰の定義=相手の進歩を目的とした有形力の行使

戸塚氏の決まり文句のこれは虐めやテロと同義であり、目的の為には手段は選ばないマキャベリズム・暴力肯定主義そのもの。ただの苦痛回避行為を進歩とは言わないし、そもそも進歩に肉体的苦痛は必要ない。

>うちに来た生徒がどんな状態だったか。みんな生きていけず、相手にもされない哀れな連中だ

教育と福祉の限界の表れ。中には何らかの障害を持った者もいただろう。彼らに必要なのはカウンセリングや精神治療であって体罰ではない。体罰容認者の存在も教育の敗北の象徴である。

>虐待はいかん。それはする側のためにやるからだ。体罰は、受ける側のためにやる。

体罰も「与える側の(安楽の)ためにやっている」。「言ってダメなら脅せ、脅してダメなら叩け、叩いてダメなら殴れ、殴ってダメなら殺せ」は、いずれもテロリズム。

>小さいころから怒られると『戸塚ヨットスクールに入れるぞ!』というやりとりがあった。

そうしやって脅さなければ躾ができないのは、教育者として未熟な証拠。未熟な親に育てられれば体罰容認に傾くのは必然。その親もまた同じように育てられたのだろう。

>その経験があったからこそ、しんどい事や理不尽な事があっても『あの時やったから』と乗り越えられた

乗り越え方としてそれがベストである根拠はない。またその経験が体罰である蓋然性もない。

>目的として不快感を与えて進歩を促すという点において、それは体罰や言葉、環境だったりすると思う。その中で、体罰だけがフィーチャーされている印象だ。

精神罰や体罰を受けプライドが傷付いた等の不快感については、原因は「それを感じる者自身」にあるので自業自得・自己責任。だが、体罰による肉体的苦痛(感覚)の原因は「体罰を与えた側」にある。よって後者だけ着目するのは妥当(論拠詳細は幣サイト)。

>戸塚先生も反論する人も、善悪の二元論で議論しがちだが、そこにはグラデーションがある。地元で『どうしても会話ができない人』を見てきた経験から、あながち全てが悪とは言えない」

相手の欠陥や問題を口実に体罰を自己正当化しているに過ぎない。「相手が自分の思い通りにしてくれない」のは己の指導力・説得力・忍耐力の欠如や不足。それを棚上げして相手に責任転嫁する事を善とは言わない。
なお、上記したようにテロ行為も程度問題でグラデーションがある。

教育に体罰は必要ないどころか「テロリズムに対する批判的思考力の乏しい大人」を育成するので弊害しかない(事実、体罰が常態化した地域では紛争も多い)。

自己欺瞞に気付かない体罰容認者もまた低水準教育の犠牲者。
義務教育で哲学や心理学を教えないから、先見力協調性適応力自制心倫理観論理力EQ各種リテラシー問題解決力等が低くなる。

以下、弊サイトより抜粋。

過激派や軍人や自他殺厳罰死刑軍拡の同調者は「脅/殺せば解決」と洗脳された潜在的テロリスト。彼らも低水準教育の犠牲者。
人物の本性成熟度を見極めるには体罰死刑中絶安楽死核武装等の是非を問えば良い。浅慮で問題解決力の低いコミュ障ほど即座に賛成。

極右極左はいずれも偏狭思想に嵌り易い政治不信な暴力主義者、同じ穴の貉。自国家体制に満足なら右、不満なら左に日和る。
「対話より圧力」「体罰必要」な外交素人教育素人に真に必要なのは、「武力ではなく交渉力議論能力」「他人の前に己の教育」。

あらゆる社会問題に共通する根本原因は無知思い込み勘違い誤解視野狭窄。解決に必要なのは適切十分な高水準教育(≠高学歴)。
低水準教育は体罰容認で知識偏重、画一的で一方的、個性や自主性を軽視。故に自己客観視能力や共感力の低い愚者を量産。
低水準教育(洗脳)を受けた者ほど「脅せば殺せば解決、怒りの原因は他者、己の知見こそ全で真」等と視野狭窄。
教育は正しい洗脳。選択肢可能性を広げ平和を齎し幸福にする。洗脳は誤った教育。選択肢可能性を狭め争いを生み不幸にする。

体罰に関するよくある勘違い http://kanjo.g1.xrea.com/rule.htm#1

論破(洗脳)できたら1億円。テーマは体罰の他にも20以上→ http://kanjo.g1.xrea.com/mindo.htm#6

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