仏教用語に執着する仏教界

>他力本願という言葉は本来、仏様が私たちを救いたいという願いを表した言葉。人任せという意味で面白おかしく使われるのはいかがなものか

言葉は本来、時代とともに意味や使い方が変わっていくもの。煩悩から離れ寛容を旨とする仏教徒が、「仏教用語のみが正しい」と拘るのはいかがなものか。

独善的な彼らもまた低水準教育の犠牲者。
義務教育で哲学や心理学を教えないから、先見力協調性適応力自制心倫理観論理力EQ各種リテラシー問題解決力等が低くなる。


以下、弊サイトより抜粋。

どんな情報もその取捨対処は受信者の自由。解釈の自由にも責任が伴う。解釈の結果(誤解不快等)の原因は発信者にはない。
未熟な解釈者ほど己の選択結果を表現者に責任転嫁。他者に不自由(規制等)を与えるから自らも不自由(怒り等)を得る。

自由度多様性の高さは精神成熟の証。最大限保障し問題の早期発見等に活用が吉。民度の低い集団ほど不都合な存在を嫌悪排除。
感情を含むあらゆる体験の根本原因は体験者自身の固定観念自分ルール思い込み先入観。それが変わらない限り似た体験を繰り返す。

世界・外界はそれを見る者の心・内界を映す鏡。世相言葉服装風紀の乱れや善悪正邪清濁美醜利害優劣はそう感じる本人の自己投影。
感情の強さは知識量増に伴い正規分布を描く。無知全知は0。最も中途半端な理解度の時、人は最も強く憤怒悲嘆恐怖苦悩感動歓喜。

あらゆる概念は人工物、意思疎通用の道具。全ての存在・事象には元々、意味や目的理由義務使命価値はない(色即是空)。
「全ては無意味」は裏を返せば「何にどんな存在理由を見出すかは各人の解釈次第・道具の使い方次第」を意味する(空即是色)。

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