情報規制は偽善者の自己満足

硫化水素で自殺するための情報をネット上から削除するべきか否か? - GIGAZINE https://gigazine.net/news/20080506_h2s/

 上記の記事中の、沖縄県警(削除させたい側)に対するウェブ魚拓担当者(削除したくない側)の返信には論理的におかしな点が多々あるので、まずはこちらに反論してみた。
(以下、引用は魚拓担当の発言)

>特定の相手に犯罪を教唆する行為は犯罪ですが
>不特定多数に犯罪の方法を示すのはそうではありません

不特定多数の中には特定者が含まれるので、寧ろ後者の方が悪質で影響大。

>「包丁を使えば人の腹を刺すこともできる」とか「ライターと石油と新聞紙があれば放火できる」
>と言っているのと大差ありません。

それもわざわざ言う必要はないし、言わない方が良い。何故なら、それまで「その発想がなかった者」がそれを聞いて「その手があったか」と犯行に至る危険性があるからである。

>上記のような例は「有害」な情報ではありますが
>日本人にはそれを表現する自由があります。

有害だと認めるのであれば自主規制すべき。警察にはそれを規制する自由と権利と責務がある。「死にたい奴は勝手に死ねばよい。表現の自由こそ大事」という発想は殺人や自殺幇助にも繋がる。

>要請して頂いたような単に「自殺する方法」である有害情報を全て消して世の中が「きれい」になって
>それでも自殺が減らなかった場合はどうなるのでしょうか。

論点摩り替えの上に仮の話。それでも減らないなら他の手段を講じれば良いだけ。

>今グレーゾーンとされている領域が全部消えてなくなったら、今ホワイトとされているものがグレー扱いされるのではないですか。

当然そうなるだろうが、少なくとも「硫化水素」で検索して自殺する者は減るので、やらないよりはマシ。

>今度はテレビ局に「ドラマ等で自殺を肯定的に扱わないように」とか出版界や映画界に「自殺を扱う内容は自粛せよ」と言うのが容易に想像できます。

その都度、自粛したり必要な情報を追加すれば良い。その分、自殺は減るし、少なくとも問題解決のための時間稼ぎは出来る。

>「自殺が肯定的に表現される芸術作品等」は江戸時代の人形浄瑠璃などでも知られる、よくあるテーマの一つに過ぎません。

伝統論証。「かつて許されていた」は今後も許される免罪符にならない。江戸時代の社会通念に普遍性があるという根拠もない。

>添付資料にあった削除要件の
>> 製造を誘因する
>> 利用を誘因する
>といった基準には、法的に十分な根拠がありません。

仮に法的になくても倫理的・論理的にはある。事細かな製造法などを記せば自殺や他殺に悪用される。その情報公開は「表現の自由の名の下に不特定多数に殺人教唆する行為」に等しい。実際、過去にはメディアの不節度な報道をきっかけに自殺者が発生している。

>人は情報があるから自殺するのではなく、その人その人の事情によって自殺していると考えられます。

後段の「事情によって自殺する」は、前段の「情報があるから自殺する」を否定しない。また人は常に情報不足(偏った情報)により犯罪や自殺をする。「硫化水素で自殺可能」という限られた情報だけを与え、「自殺以外の問題解決法」や「自殺が失敗する危険性」などを伝えないから、「楽に死ねる」等と錯誤する。

>極端な話、物心ついた日本人なら誰でも首吊りの方法を知っているのですから。

物心ついても自動的に知るわけではない。「首吊りの方法」を教わらなければ知ることはない。「極端」というより寧ろ「虚偽」。

>場当たり的な方法は社会に悪影響を及ぼすでしょう。

根拠不明で推測の域を出ない。

 ここまで読めば、殆どの人が「悪用され得る情報は規制するのが正しい」と感じるだろう。

 ウェブ魚拓担当者は、児ポや被差別部落と同様に自殺に繋がる情報もまた当局の削除要請に応じるか、若しくは最初からいずれも当局の要請に応じないのが、最も矛盾がない。どの犯罪も本質は同じであるにも関わらず、自殺だけを特別視するからダブスタに陥り、それを誤魔化すために上述したようなちぐはぐな主張になる。
 特定の情報を隠蔽する/提供しないことで特定の犯罪を未然防止できるなら、それが一時的であっても隠蔽するのが公序良俗に資するだろう。時間を稼いでいる間に問題解決のチャンスが生じる可能性だってある。

 しかし、上記した規制支持の主張には論理的欠陥がある。

 結論を先に書くと、如何なる情報もその利害は解釈次第。「一部の人に有害だから」と隠蔽しても、問題は先送りされるだけで解決されない。規制のみに終始するのは偽善者の自己満足。自殺サイト(アレとアレを混ぜたら死ねるよ)の削除に賛成する者が死刑制度(沢山人殺したら死刑で死ねるよ)の撤廃に反対するのは自己矛盾。・・・となる。


以下、上記の太字部分の少々クドイ論拠詳細。

 「アレとアレを混ぜたら死ぬ」という情報自体は有害でも有益でもない。ただの客観的事実の記述である。利害はその情報の解釈次第で決まる。悪用しようとする者は自殺や他殺に利用するが、有効利用しようとする人は危険を回避しようとする。死のうと思えばいつでも死ねる事を知って自殺を思い留まる人もいれば、近親者の自殺の意図を事前に察知し未然防止に繋がる可能性もある。
 著名人の自殺が報道されると後追い自殺が増える「ウェルテル効果」は、前後即因果の誤謬である。報道と自殺には相関はあっても因果はない。日頃から何かを契機に自殺する心理状態にいるからこそ、人は後追い自殺をする。つまり元々抱いていた希死念慮こそが自殺の原因であって、報道は一時的な外的刺激・きっかけ・最後の一本の藁に過ぎない。共通原因である「異常心理状態」を放置したまま「報道」だけ規制しても、論点の摩替えになるだけで解決にならない
 紛争やテロの原因が低水準教育であって貧困や民族や宗教や資源ではないのと同様、客観的な「原因」と主観的な「理由・言訳・口実・動機・契機・きっかけ・端緒・発端・トリガー」は異なる。徒に問題を先送りするだけの報道規制は偽善である。
 とある漫画の殺害シーンを模倣して級友を殺害した子供がいたから、とその漫画を規制するのも同様の責任転嫁・論点摩り替えだ。追究すべきは「その子供がどのような家庭教育下でどんな価値観を教わってきたか」「健全な発育の為に何が足りなかったのか」「その知見を国民にどう共有し活かすか」である。

 犯罪の原因は常に「犯罪者の精神的未熟」。未熟の原因は「低水準教育」だ。得た情報をどう解釈しどう対処するかは、各解釈者が本人の意思で決める。情報を提供した結果、犯罪が起きたなら、解釈者の選択の結果つまり自己責任である。逆に何らかの情報を得て犯罪を防止できたとしても、その原因は「防止した人の解釈」であって「きっかけとなった情報やそれを与えた人」ではない。情報とそれに対する解釈・反応・対処には相関はあっても因果は無い。結果が提供者の思惑通りだった/でなかったとしても、それは相手が従う/従わないという選択をしたから生じた結果論に過ぎない。
 同様に、児ポを見て児童買春に至ったとしても、その原因は児ポそのものではなく「買春した者の人権意識・自制心・共感力・倫理観の低さ」である。従って児ポそのものを幾ら規制しても、一部の小児性愛者の人権意識・自制心が「低いまま野放しにされる」ため児童虐待は無くならない。実際、児ポが存在しなかった時代にも児童買春・誘拐等は存在した。
 「児ポが快楽を誘発/充足するため、犯罪を助長/抑止する」の両論があるが、どう作用するかは解釈者の選択次第だ。解釈者がそれまでに正しい情報(教育)を受けていれば、子供の心身が直接侵害されることはない。「銃乱射ゲームがストレスを解消/増幅させ、銃乱射事件を抑止/誘発する」「死刑制度が人心を荒廃/恐怖させ、凶悪犯罪を誘発/抑止する」も同様である。
 一部の小児性愛者が犯罪を犯しても、大部分の小児性愛者は児童の人権を考え性的暴行などしない。「一部と全部の同一視」「個人と集団の混同」は差別や偏見を生じやすくし、犯罪を却って潜在化・陰湿化・巧妙化・凶悪化させる。当然、原因ではないからと言って児ポの撮影等が無問題になることはない。

 予め相手が「犯罪傾向の高い人物や集団」等と”特定できる”場合は、当然、不用意な情報提供は避けるべきだろう。相手の反応が結果論で因果でなく相関であること自体は変わりないが、狂人に凶器を渡せば明らかに犯罪発生率は高まるからだ。「硫化水素だと楽に綺麗に死ねる」などの誤情報のみの提供も避けるべきだし、未然防止に有益な情報の併記も重要となる(パパゲーノ効果)。
 だがそうした対処は、たとえ即効性はあっても所詮、対症療法でしかない。真因である「病んだ心」を治療しない限り、生きる力の乏しい患者は置き去りにされたままだ。

 あらゆる社会問題の共通原因・根本原因は無知・無教養・未成熟・精神疾患・人格障害。それらが放置される原因は低水準教育。義務教育で哲学・心理学を教えないから、想像力・自制心・倫理観・論理的思考力・メディアリテラシー・問題解決力が低くなる。低水準教育は体罰容認で知識偏重。故に柔軟性・協調性・創意工夫力・自己客観視能力の低い傲慢で粗暴で独善的な愚者を育成する。高水準教育≠高学歴。低水準教育下では幾ら高IQ・高学歴でも情報分析力・問題解決力・倫理観・自主性・先見力・適応力の低い人格に育つ。

 「特定の相手の選別や殺人願望の解消などは困難なのだから、たとえ時間稼ぎにしかならなくてもやるべきだ。犯罪発生の確率よりも絶対数を減らすべきだ。有効利用する人が100人いようが1人でも悪用の虞があるなら規制すべきだ」と考えるなら、多くのメディアや治安当局や独裁国家が既にしているように情報規制すれば良い。模倣犯防止のため、TVや映画や演劇や書籍や漫画では、殺人シーンは全てカットすべきだし、調理用の刃物等を売る店でも、客の身元や精神状態をその都度確認した方が良い。新幹線のみならず一般の電車やバスに乗る前にも、引火性の液体などを持ってないか乗客一人一人の身体検査する必要があるし、毎朝、全生徒のボディチェックを行い、ナイフなど持ってないか確認すべきだろう。「1人でも悪用の虞があるなら規制」とはそういうことだ。安全は無料ではない。
 だがそのように考える人々の殆どは、同じ理屈で「死刑を廃止しよう」「警察の殺傷武器の携帯を廃止しよう」とはしない。「市販のアレとアレを混ぜると死ねるよ」という情報は「多くの人を殺すと国が貴方を殺してくれるよ」「死ぬ気で警察官を襲うと拳銃で殺してくれるよ」と本質的に同じであるにも拘らず、だ。恐らく「自殺サイトは自殺を防止せず誘発するだけ、死刑は犯罪を全く誘発せず抑止するだけ」と勘違いしているからなのだろう。論理的整合性が取れていない人が多いうちは、いつまでも規制のダブスタは無くならず本当の未然防止はできない。

 まとめると、どんな情報も概念も道具もその利害は解釈の仕方・使い方次第で決まる。情報を与える順番が正しければ利に適うし、間違えれば害が生じる。本来やるべき教育(正しい情報を与える事)をやらずに規制や厳罰化(間違った情報を与えない事)だけをしても、それは事勿れ主義・一時的言葉狩り(表現狩り)・自己満足・現実逃避・臭い物に蓋・一時凌ぎ・問題の先送りにしかならず、却って油断・怠慢・差別や犯罪の巧妙化等を招き、問題解決は遠のく。
 故に、全体主義的で他罰的で非論理的な差別主義者や、そんな人々が多い民度が低い集団ほど、自分たちに不都合な表現・出版・報道・言論を規制したがる。都合の悪い情報はブロックするネトウヨが中国や北朝鮮の言論封殺を批判するのは、自己投影による同属嫌悪に他ならない。


より詳細は下記サイトをご参照ください。
感情自己責任論(解釈の自由と責任)~学校では教えない合理主義哲学~ http://kanjo.g1.xrea.com/kanjo.htm

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