種植えは実が生った原因ではない

「種を植えたことも実がなった原因である」は、論理飛躍した結果論である。
以下、その詳細説明。


結論から言えば、実がなった原因は「(適度な栄養、水、空気、光、適温、時間の経過、並びに発芽や細胞分裂を妨げる遺伝子上の瑕疵がない、実る前に枯れたり動物に食べられたりしなかった等々の)諸条件が揃ったこと」である。つまり、種植えは「原因」ではなく「条件・きっかけ・発端の一つ」等と称するのが正しい。

種を植えただけでは発芽もしない。発芽の原因も「水や酸素などの諸条件が揃ったこと」だ。
条件のどれか1つが欠けても実はならない(結果に至らない)のだから、そのうちの1つを「実がなった原因」とするのは結果論に過ぎない。「条件が満たされた原因」は種を植えたことにあるが、即「実がなった原因」とは言えない。

更に言えば、種を植える行為も発芽の原因ではない。人が手を加えずとも、大概の種は条件が揃えば自ら発芽し地中に根を張る。種を蒔く行為は、あくまで「蒔いた場所で発芽したきっかけ」だ。
或いは、種植えは「(土を被せることで温度と湿度を保ち小動物に食べられにくくする等して)発芽する確率を高めた原因」と言える。環境を整えてもその他の条件が揃わなければ発芽しないので、「発芽しやすくした事」を「発芽した原因」と見做すのはやはり結果論である。

発芽後に育成する原因も種にはない。養分・水・二酸化炭素などの諸条件が揃ったことが、育成した原因だ。
果実も、受粉等の過程を経て初めて実現する。植物によっては、雄株から雌株へ向かう風や昆虫の存在が受粉の必要条件となる。

このように、発芽した原因も育成した原因も実がなった原因も種にはなく「植えること」すら必須ではないのに、どうして「種を植えたことが実がなった原因」と言えるだろうか。「遠因・要因・間接的原因」等と称するなら、まだしも。

「言葉遊びだ。諸条件を原因を称しても実態は変わらない」という反論もあるだろう。だが、原因の定義を広げれば広げるほど本質から離れ因果を見誤り、原因ではない事まで「なくせば解決」と短絡する人が増え諸問題の解決が困難になるので止めた方が良いのだ。
以下はその事例。これらの視野狭窄・思考停止・論理飛躍が如何に災禍の「遠因」となっているかの論拠詳細は、他記事や弊サイトで既述なので割愛。
 ・不快感の原因は、不快になるような言動をした側にある
 ・イジメられる側にも、イジメられる原因がある
 ・夜道を女一人で歩くから痴漢に遭う。被害者にも原因がある
 ・自殺の原因は、失業や失恋その他失敗による失意・失望にある
 ・戦争・紛争は、資源格差や貧困や民族・宗教の違い等が原因である
 ・犯罪の大半は男が起こす。男がいなくなれば犯罪の大半は解決
 ・そもそも人間が存在するから社会問題が起こる。人類が滅亡すれば解決
 ・結局あらゆる物事の原因はビッグバン
 ・全ては神の御心のまま。己の犯罪行為もまた神の計画・思し召し


以下、弊サイトより抜粋。

同じ原因は常に同じ結果を生む。時に結果が異なるなら、それは原因ではなく主観的な理由や動機・条件・言訳・口実・根拠・切欠・発端・相関。
原因ではない表層的事象の解消は偽善・自己欺瞞。根本的解決にならない。故に、仮に貧困を無くしても富豪が罪を犯す。

AがBを咎めBが自殺した時、「咎めた原因」「自殺の原因」は其々Aに100%と0%。曖昧な善悪論ではなく因果論で語るべし。
Aの誤報でBが誤信した時、「誤信の原因」はBに何%?答えはそのまま回答者の精神成熟度を表す。情報源は誤解の原因に非ず。
AがBを挑発しBに殴られた時、「挑発した原因」「殴った原因」は其々Bに0%と100%。動機口実切欠は原因ではない。
Aが命令しBがそれに従った時、「命令した原因」と「従った原因」は其々AとBに100%。行為の原因は常に行為者にある。

論破(洗脳)できたら1億円。現在テーマは約20→http://kanjo.g1.xrea.com/mindo.htm#6

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?