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コトル

 カルスト地方は、スロベニア西南部からイタリア北東部にかけて広がるヴィパーヴァ谷、ブルキニの丘陵、トリエステ湾に囲まれた地域の台地を指す名称。カルスト地形という地理学用語の語源となっている。この地域の石灰岩は、約2億年前から、新生代第三紀まで存在していたテーチス海(古地中海)で発達したサンゴ礁が起源である。石灰岩地帯はアドリア海沿岸、クロアチアの海岸から南はモンテネグロまで広がっている。

 コトルは、モンテネグロの一都市で、アドリア海に面し、入り組んだコトル湾内の最奥ロブチェン山の麓に位置している。荒波の影響を受けることなく穏やかな港町となり、海運の拠点として栄えた。
 ツェティニェからは、石灰岩がむき出しになった山道を通って、ロブチェン山の横を過ぎ、70以上のジグザグを繰り返す、「コトルのはしご」をおりるとたどり着く。

 コトルの街は、古代ローマ時代には、属州の一部だった。6世紀には要塞が造られ、10世紀にはビザンツ帝国の自治都市となった。その後、セルビアの自由都市として約200年、約40年をヴェネツィアとハンガリーの支配下で過ごし、それから約360年間はヴェネツィアの支配下になった。
このため、コトルの旧市街にはヴェネツィアの影響が残されている。また、カトリックと正教会の両方の教会が街中に点在しており、様々な国家や文化の影響を受けてきたことがわかる。1815年ウィーン会議により、オーストリア領となり、1918年には旧ユーゴスラヴィアの一部となった。2006年にモンテネグロが独立するに当たって、コトルはモンテネグロの都市となった。
 
 港町コトルが繁栄を極めたのは15世紀から18世紀、ベネチア共和国の支配下にあった時代。地中海貿易の拠点の一つとして大いににぎわった。コトル海軍は地元の勇敢な男たちで構成され、主にコトル湾を行き交う商船の護衛を行っていた。海賊や当時の宿敵であるオスマン帝国からの攻撃に対し、勇敢に戦い、商船を守ってきた。
 
 ギリシア時代ごろからさまざまな国が、地中海沿岸に植民地をつくっているが、交易都市をつくりその奥地に住んでいる人と交易をするのが目的なので、奥まで広がっていないのではないでしょうか。
 


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