枕詞

 あしひきの ながながし尾の しだり尾の と口ずさんでましたが、やまどりの尾でしたね。
 https://tabemon0141.com/niti764/ には百人一首に出てくる7つの枕詞が、紹介されていますが、間違っていた、「あしひきの」に加えて、「ひさかたの」と「ちはやふる」はまあ、枕詞かなあと思っていましたが、ほかにもあったんですね。
 
  玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば 忍ぶることの よわりもぞする
    このような、感情をぶつけた句って揺さぶられますね。

  あかねさす も聞いたことある詞で枕詞になっています。

そして、枕詞といえば あおによし なら であります。
  あをによし(青丹吉) 奈良の都(寧楽之京師)は 咲く花の
                  薫にほふがごとく 今盛りなり
    です。
 解説によると、太宰府の宴会において、小野老おののおゆ(太宰少弐・次官)が詠んだものです(729 年)。前年の春、都に上り、目にした都の人々や建物の華やかさに触れて、こんな都に早く帰りたいという願いを込めて、都の繁栄を讃えたものと思います。

 大宰府といえば菅原道真の「東風吹かば」で、大宰府に東の風に乗って梅のにおいがしてくる和歌かと思ってましたが、東風は単に春をあらわしていて、大宰府と京の位置はかんけいないんですかね。
 延喜元年(901)正月、菅原道真が政敵、藤原時平一派の讒言、策謀にはめられ九州・太宰権帥に降され、出発するときに「東風吹かば匂い起こせよ梅の花 主なしとて春な忘れそ」と、別れを惜しんで屋敷の梅に語りかけるように詠んだ歌だそうです。

 もうひとつ令和も なんか大宰府に関連してたみたいでしたが
「令和」のルーツは、727年ごろ、九州の重要拠点である大宰府に大伴旅人が長官として赴任したことから始まります。大宰帥である大伴旅人は政治家として手腕を発揮すると同時に、優れた歌人でもありました。
 730年の正月に彼は大宰府を含む九州諸国の役人を自身の邸宅に招き、宴を開催したとされています。
 この宴こそが、中国渡来の白梅をテーマに歌を詠んだ「梅花の宴」でした。この宴の中で歌を詠む前に、宴の参列者に向けて発された序文「初春の令月、気淑しく風和ぐ。梅は鏡前の粉に披き、蘭は珮後の香に薫る。」の文言から2字を抜粋して「令和」の元号となったのです。
 この序文は現代でいうところの開宴の挨拶で、宴の開かれた日が好天であり梅の花日和であったことを表しているのかもしれません。
https://thegate12.com/jp/article/287

 令和の句会とあおによしの句は同時期の句で、菅原道真はその170年後の話なんですね。大宰府には飛梅が飛んでくる前から梅があったということになります。

 さて、本題ですが、枕詞の後ろには決まった言葉がくるっていわれますが、同じ枕詞の句をみたことがないので、本当かどうかわからなかったのですが、”枕詞「あをによし」の意味とその変容” http://www.baika.ac.jp/~ichinose/o/202009ota.pdf には、30ほどの例があると記され、14の実例があげられていて、本当に枕詞って存在することを実感しました。

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