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「82年生まれ、キム・ジヨン」:三代の女性たちが励ましの糸でつなぐ絆

韓国でベストセラーとなった小説『82年生まれ、キム・ジヨン』が二年前に邦訳され、話題になった。同作を原作とした映画が日本でも公開された。小説と映画でストーリーに違いがあるとはいえ、この世代の女性が人生のなかで共通して経験してきたことを繊細に描き切っており、さまざまなことを考えさせられる良作となっている。

この作品の主人公はキム・ジヨンという三〇代の女性だ。大学を卒業して会社に勤めるが、結婚・出産を機に会社を辞める。そして孤独な子育てや、夫婦双方の実家との人間関係に消耗し、やがて精神に変調をきたすようになる。ジヨンは自分が幼かった頃から今に至る人生を思い出す。それは女性が男性よりも後回しにされることが当然とされていた時代の、ひりひりとする回想なのだった。

東アジアの儒教的な家父長主義が日常生活のあちこちに残存する社会を生きのびることの皮膚感覚は、同じ文化を共有する日本の女性たちには「あるある」感覚として深く共感されるに違いない。

学校では女子よりも男子の名前のほうが名簿の先に来る、息子の進学のほうが娘の進学より優先される、父親が娘ではなく弟におみやげを買ってくるなどの一見些細な出来事の積み重ねが、一〇代だった主人公にこの社会の隠されたルールをたたき込んでくるのである。

とくに若い女性が公共空間のあちこちで出会う性的で卑猥な視線や痴漢の経験、そしてそれらの出来事に巧妙にふたをして見えにくくしていく社会システムは、現在の日本においてもまだ厳然として存在しているであろう。このあたりは、男性たちが頭では理解できても皮膚感覚では分かりにくい箇所だと思われる。

ジヨンの夫は、家父長主義の文化が身に染み付いてはいるものの、それでもなお妻の背負う重荷を自分もできるかぎり分かち合おうとする善良な男性である。しかしジヨンはみずからの背負う痛みがけっしてこの善良な夫には理解されないであろうことを心底から知っているがゆえ、心の苦しみをどこにも吐き出せない。ジヨンを苦しめるのは目の前の単体の男性ではない。韓国社会を築き上げてきたジェンダー(社会・文化的性差)の大きな仕組みの歴史の蓄積の中でジヨンは窒息寸前になっているのである。

ジヨンの母親の世代は、その苦しさをたとえば夫に向けて爆発させるという手段が残されていた。しかし男女平等の思想が表面上当たり前となった世代ではそう簡単にはいかない。ジヨンは、善良で平等志向の夫を糾弾することができない。夫が会社でたいへんなことや、女性蔑視の考え方を否定しようとしているのはよく分かるのだ。だからジヨンの苦しみは無力感にしか帰結しない。社会が男女平等志向になったからこそ、ジヨンはさらに解決不能な重荷を背負うことになったのだ。

それはジヨンに精神の病を発症させる。他人が乗り移ったような言動を取るのだ。しかし映画が秀逸に描くように、これは単なる病ではない。ジヨンの憑依現象は、韓国社会でつらさをかかえて生きてきた祖母・母・娘を、女性から女性への励ましの糸でつなごうとする希望の連鎖なのである。

東アジアの精神性を形成した儒教の根底にはシャーマニズムがある。亡くなった祖先を子孫が祀り、祖先たちの魂はときおりこの世界へと帰ってくる。韓国ではこの世代間の命の連鎖を祭祀を担う男性がつなぐとされた。だがこの作品ではそれをつなぐのは男性ではなく、祖母・母・娘の三代の女性たちの魂の絆である。

この作品はなるべく多くの男性たちに届いてほしいと私は思う。男性たちの中には「男もまた苦しんでいる!」という言葉が喉元まで出かかる者もいるはずだ。だがまずは、現代の日韓の女性たちの多くが共有しているであろうジェンダーの皮膚感覚を理解しようと努めてみてほしい。そしてそれを頭で簡単に分かろうとするのではなく、何か理解不能な大事なものがそこにはあるということの重みを感じ取ってほしい。それが男性からの地に足の着いたアクションへの第一歩となるはずだからだ。(終わり)

* 共同通信配信で2020年10月に地方紙に掲載された。

* この作品は、書籍と映画で内容がいろいろ異なるが、もっとも大きな違いがあるのはそのラストだろう。これはネタバレになるのでここでは書けない。ぜひ両方を見てみてほしい。全体としては映画のほうが良くできているように思った。書籍では細かく描写されていない箇所を、監督と脚本家が良く練ったシーンに仕立て上げている。プロの作業だと思う。とくに、乗り移った祖母に、母が出会うシーンは美しく素晴らしい。映画産業としても、日本映画より韓国映画のほうが上なのではないかと心底思った。映画の問題点はやはりラストシーンだろう。ここは私としてはいまいちだったかな。小説のほうは、たしかに共感を呼ぶし、話題性にも富んでいる。だが作品性としてはどうかなという感じがする。もちろんテーマとして描かれているものはとても考えさせられる大事なものであることに間違いない。日本と韓国はもっと合作映画を作ってみたらどうなのかな。それぞれの強みがあるはずなので、とてもいいものができると思うのだが・・・。

* 近々有料(100円)にします。


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