「ユーコンを流れる」2019 ユーコン川344km、8日間一人旅④
一番気遣ったのはグリズリーGrizzly対策で、貰った指南書には多くの注意事項が書いてあった。調べると、「ハイイログマ」というのが正式名称である。北海道のヒグマの亜種で体重が260kgもある。ムースやヘラジカなどの野生動物が住む世界(テリトリー)の中に、人間が入っていくのだ。
2022年に亡くなったカヌーイストの野田知佑氏は『ユーコン漂流』(2019)の中で、クマに人間の存在を知らせるため、森に向って銃を数発発砲したと書いているが、今はそんなことはできないだろう。私の「武器」は、KP店で渡された唐辛子のようなものが入った熊スプレーだけである。5mくらいの距離にクマが接近したら、これを発射するようにと言われたが、こんなものでどうにかなるのだろうか?向い風の場合はどうするのだろう?大岩のような猛獣に、子供騙しのような武器で甚だ心許無い。野田さんが愛犬を伴う理由がよくわかった。
また、クマはキャンパーが持ち込む食糧を狙ってくるので、テント内には食料を持ち込んではならないとある。では、どうするのかと言えば、テントからずっと離れた場所の、クマが届かないような高い木の枝に、食料をロープで吊り下げるのである。しかし、テントを設営した場所は河原であり、そんなことができる木は、近くにはない。あっても低木ばかりで何かを吊すことができるような高木は見当たらないのだ。先日、カナダを舞台にしたTVドラマを見ていたら、食糧を木に吊るしていた場面があった。
私が住む九州には熊はいないので、普段山に行くことはあっても、クマベル(鈴)など身に付けたことがない。私には、熊に対する警戒心が身についていないのだ。
そこで、テントから離れた場所にカヤックを置き、食糧はカヤックのハッチの中に収納した。これには水の侵入を防ぐ蓋がついているが、クマが爪でこじ開けたら簡単に開けられそうだが、止むを得ない。またテントの中には一切匂いがするものを持ち込んではならないともある。石鹸やシャンプー、化粧品などもである。KP店では食糧を入れる大きなプラスチック製の樽型容器を貸してくれるが、これはカヌー用で、私のカヤックには大きすぎて、とても載せることなど不可能である。
周囲の水辺には案の定、動物の足跡だらけである。クマの足跡はすぐに分かる。他の動物よりも大きく、また深いので一目瞭然である。これを見ただけでクマの巨大さが想像できる。祈って、運を天に任せるしかない。ただ新しいものはなかったので、気を取り直して、クマよけのために焚き火をした。河原には流木が多く、それが適当に乾燥しているので、薪には不自由しなかった。ノコギリを持参したが必要なかったようだ。
高緯度帯なので夜10時くらいまで明るい。また、ヨーロッパへの航空機の航路帯になっているので、航空機が頻繁に通過する。周囲に街の明かりがないので空は満天の星空で、星が流れ、天の川が乳白色に輝いている。まさにMilky wayである。突然、隕石が落下したような強い光が周りを照らした。何が起こるのか?と一瞬身構えたが、何もなく、川の音が聞こえる元の静けさと真っ暗な闇だけが残った。
朝起きると焚火は消えてしまっていた。放射冷却で冷え込み、寒さで夜中に何度も目が覚めた。厚手のシュラフ(寝袋)を持って来なかったことを後悔した。この時期、タオルケット1枚ですむ日本とは大違いである。こうして、何もかもが日本とは違う異次元の世界の中に、私はいた。
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