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座席の真ん前に立った人の顔を見上げたい

今日は荷物が多い。全集とノートパソコンと大量のプリントが入った原型を留めないクリアファイルとは、リュックの中では共存できないものである。そこでトートバッグのお力を借りる。これではとても立ってはいられまいと今日は東西線で座席に座った。

今私の目の前に立っているこの人間は、白いスラックスに太めの茶色いベルトを締め、どこか昭和クラシックな雰囲気が漂ういでたちである。

ミッフィの顔の下部にある「×」の正体がわかってしまった途端、魅力が半減すると言った人がいるが、不明瞭な部分があるほど人は惹かれるものである。それがわかってしまうと、な〜んだそんなことかとそのリアリティに幻滅してしまうこともしばしばである。

にしても、気になる。数ある座席の中から、私の前に立とうと思ったこの昭和レトロの顔を見たい。

こいつならすぐに降りそうだと思ったのか、はたまた乗車口からまっすぐ歩いて行き着いた先がここだったのか。そんなもの顔を見てわかる話ではないが、なんとなく見たいのだ。

しかし、顔を見上げた途端目があったらどうしよう、と言葉にすればなんとも少女趣味な夢想的きもちわるさがあるが、そう考えるのは自然なことだ。

あとは、こいつは人の顔をまじまじと見るあつかましいやつなのか、と思われないか。え、そんな見られるほど変ですか?といらぬ心配をさせても嫌だ。こうして上げ連ねてみると、私はなんとも傲慢な加害妄想を繰り広げるのが好きな人間らしい。


そんなことを考えていると、ふと、この感覚をどこかで味わったことがあるような気がしてきた。

例えば、答えがわからない質問を教壇に立った先生が教室に投げかけたとき。ひたすら生徒は目を逸らし下を向く。だが、私はそんなとき絶対に目を合わせたくない気持ちと、先生の顔が見てみたい衝動の両方に襲われる。誰かを当てようとする先生の顔はどんな表情なんだろう。自分と目があったら本当に当ててくるのだろうか。ニヤけているのか、悲しんでいるのか、無表情なのか、わからないものがあると知りたくなる。

あとは、街角で大声をあげている人の顔、泣いているクラスメイトの顔、3人の会話に混じれていない人の顔、満席の学食で隣に座ってきた人の顔。見たくても見れない、というより見れないのに見たい顔、というのは案外そこらじゅうに転がっているのだ。

「見ている」と言う信号は、残酷なほど不器用に意味を孕む。目は口ほどに物を言うとはよく言ったものだが、視線は告白であり、囁きであり、暴力である。
そこには具体的な言葉はなく、視線のやり取りという暗闇の中で、声のない声を聞き取り合うのだ。

見るという行為は、やはり恐ろしいものなのだ。好意にも敵意にも何にでもなれる視線は、誰しもが持っているのに、実は誰もその姿を見たことがない。

その曖昧さの中で、私は私の視線を操るしかないのである。私が見るということで、どんな結果が生まれるのか、相手がどう思うのか、それら全て見えない私の視線の上で危ない綱渡りをしている。


しかし、なんにせよ、こうして前に抱えたリュックからずり落ちる重たい鞄を極まり悪く押さえつける私では、あなたと目を合わせる程の価値はないのである。

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