日記(2021年10月7日)

唐突で申し訳ないが、私の視力は低い。加えて、乱視が少し入っている。眼鏡が無いと、日常生活に非常に支障をきたす。

朝起きた時に、眼鏡が手に取れる位置にないと不安だ。寝る前に眼鏡をはずし、枕元に置く。本当は、眼鏡を置くためのスタンドか何かがあればよいのだが、ベッドてなく布団で就寝しているため、スタンドを踏んだり蹴ったりするリスクを鑑みて(というのは建前で、面倒くさくて)、そのまま置いている。ケースに仕舞えばよいのだが、なぜかそうしない。本当になぜだろう…

コンタクトレンズにすると言う手もある。十年ほど前、眼鏡が煩わしくなり、コンタクトにトライしようとした。が、ドライアイが災いして、結局10分も着けていられなかったのだ。そして症状は年々ひどくなる。今では定期的に(主に右目が)、ひどく乾燥し激痛が走るようになってしまった。今も死にそうだ。


人には多かれ少なかれ、知識欲と言ったものはあると思う。知りたい、分かりたい、自分の引き出しに入れたい。それは自身の存在の昇華のためか、他者へのマウントのためか、色々理由はあるだろうが。幼い頃は学校と言う教育所にいるため気づきにくいのだが、成人してからおもうのは、正しい(と現代の知識人たちによって定義されている)知識と言うのは、案外入手が難しいということだ。

教科書というものがある。あれは教育省の監査に通った内容が記載されているため、「正しい知識」が内包されている…可能性が高い。しかし教科書は学校に通わなければ入手するのは難しい。一般的に易く手に入れるのことのできる本も、あるいは正しいのだろうが、国により監査されているわけではないため、多く誤りを含む場合もある。出版社の論調によっては左右どちらにも傾く。意図的に情報が”削られている”場合もあるかもしれない。正直、何を知りたいと思うかは個人の自由であり、それを制限する権利はない。勿論、個人の価値観由来の”正しさ”は個々人が持ち合わせている。本人の思う”正しい知識”を知りたいと思うことは、悪いことではないが。……例えば、ケーキが好きな人間が、ケーキだけを食べて、病気の一つもなしに生きていられるのだろうか?…その確率は、体質次第ではあるが、おそらく低いと考えられる。…職も知識も、文字通り”好き嫌いしない”こと、ひいては”悪食”であることが、身も心も健康でいるためには重要なのだろう、きっと。

民衆は、知る権利はあるが、知らされる権利はないのだ。なにが報ぜられるかには関心が寄せられるが、何が報じられていないかに視線を向けるものは少ない。後者に気を行き届かせるためには、やはり知識欲というものは大事なのだ。

年齢を経るにつれ、人間は好き嫌いが少なくなっていくという。これは味蕾の数が年と共に減少していって、味に対し鈍感になるからだそうだ。人間の味覚は体に害をなすものを避けることができるよう、毒のあるものに対しては”苦味””えぐみ”等不快感を感じられるように設計されている。しかし、苦味のあるもの、えぐみのあるものすべてが毒であるというわけではない。ゴーヤやピーマン、渋柿は、ほとんどの人にとっては毒ではない。きっと、知識もそういうものなのだと、私は思う。


(なんだか今日の文章はかなり乱文な気がする。こんな個人の思考の煮凝りみたいな文章を読んて頂いた諸兄には本当に申し訳ない…)


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