日記(2021年10月11日&2021年10月12日)

やっちまったよ。ついにすっぽかしちまったよ。

まあ、何と言いますか、その…ちょっと仕事に追い込まれておりまして…昨日の日記が書けませんでした。

しかも、本当に机に向かっているだけの一日でしたので、何もなかったんですよね。


加えて、今日もなにもなかったんですよね。日記って、書くことが無いとこんなにも難しい。

そういえば、最近イラストの練習を始めたんです。昔(十年以上前)少し練習していたんですが、めっきり描かなくなってしまって…文章を書く方が楽しいと考えていたんです。

ええ、「考えていた」んです。

楽しいとはどういうことでしょうか?本人の好奇心が満たされることでしょうか、それとも、周囲から評価されることでしょうか。少なくとも私は後者であると思っています。

何度でも言いますが、人間は社会的生物です。人と繋がることで文明を発展させてきました。人と交わり、意見を交わし、よりよい社会を築く。現在の世界は、この過程を繰り返してきた歴史であり、(天変地異でもない限り)今後もこうやって紡がれていくと考えられます。

人間含め動物は、多かれ少なかれ攻撃性を持っています。それは、歴史を鑑みても明らかでしょう。つまり、他者との交流には、自分が害されるかもしれないというリスクが大なり小なりあるのです。すべての生物には生存本能があり、命が脅かされる機会をなるべく避けるようにプログラムされているということを考慮すると、食物や居住環境、生殖のための番の奪い合いの起こる同族(かつ同性)との交流は、一見不合理なものと考えられます。

そこで生み出されたのが「悦」という感情ではないでしょうか。周囲から(自分よりも強い(と自分が思っている)人間から)評価されて、「嬉しい」と感じる現象…。文明の黎明期であれば「大きな獲物を狩ることができてすごい」「食べられる植物を見つけてすごい」…といった言葉に、心の満足を感じる現象。そして悦と同時に生まれたのが「悩」…具体的には、思ったよりも評価されなくてくやしいと思う感情だと思っています。

悦悩を感じればこそ、人々は交流することができるのでしょう。


話は戻ります。文章を書く方が楽しいと考えていた、と書きましたが、そうです…楽しいとは「悦」、すなわち、イラストを描くことよりも、文章を書く行為の方が、より他者から評価を受けることができていたのです。(こんな乱文では、諸兄は納得しないかもしれませんが)

ですが、人類は今や70億人に迫る個体数を誇っています。私一人が他者から評されなくとも、きっと文明は問題なく発展しますし、人類の歴史はまだまだ続いていくことでしょう。であれば、楽しさの基準は「悦」でなくても良い、と考えたのです。純粋な自己満足…。

ともあれ、練習あるのみだ。

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