日記(2021年9月30日)

思いついたことをそのまま文章にしたかのような体裁を保ってはいるが、このような公開媒体であるため、少しだけ構成を練ったり、添削したりする場面がある。そこに、日記としては生ずるはずのない多少の「労力」が入る。

人は、その根幹に社会性を持つ動物であることを以前述べた。現代日本のような社会、いわゆる資本主義体制は、より多く働いた者が富を得るという構図となっている。基本的には。

で、あれば私がこの日記連載(?)に対し多少なりとも評価を求めてしまうという心情がほんのわずかではあるが存在する、という事実に罪悪感を抱く必要はないのだろう…と信じたい。仕事ではないので、富を得ようという気はさらさらない。あくまで、考えの整理と発散に過ぎない。


話はがらりと変わるが、我が家にはいわゆる積読がそこそこある。買ったはいいものの、どうも読む気の起こらない分厚い本が、薄く埃をかぶった本棚に仕舞われている。(衛生的にも良くない)

電子書籍に切り替えようか、何度も悩んだ。そうすれば、本が埃をかぶることもないし、何より本棚という生活空間を圧迫するものを買い足さなくて済む。もし夜中に大きな地震でも起これば、寝室にある背の高い凶器が、容赦なく寝ている一組の夫婦を押しつぶすだろう。特に本棚側で寝ている私の命は危ない。このようなリスクを承知しているにもかかわらず、なんとなく紙の本を買い続けている。無意識のうちに、紙の本のなにかしらに魅力を感じているのだろう…。今一度、その点を整理してみようと思う。

紙の本には独特のにおいがある。新書であればぱりっとした糊とインクの、古書であれば古ぼけた紙の甘いにおい。これをかぐのがたまらなく好きだ。ページをなぞると、文字と共に飛び込んでくるこれが。

古書に限った話ではあるが、過去の所有者を想像するのも好きだ。書き込みや、折れたページを発見するとうきうきする。どんな人だったんだろう、なんで売っちゃったんだろう、この本に何を求めていたんだろう。…そうして、私が死んで本が売り払われる時、私のように想像する人に出会ったら良いな、とも思う。(私自身は、本を折ったり書き込んだりはしないが)

本を読み終えた後、その厚みを確認することが好きだ。ページが多ければ多いほど、すなわち本が厚ければ厚いほど、大きな満足が得られる。「自分はこんな本を読み切ったんだぞ!」という、謎の達成感がある。(内容の是非は問わない)

そして、紙の本が整列されている様が好きだ。大きさ・ジャンル別に分けられた本が、巻数順にビシッと並んでいる光景はとても気持ちがいい。本当に気に入っている本の表紙を見やすくするために、わざと一冊だけ”展示”のように配置するのも良い。

……つまりは、「紙の本という存在」が好きなのだろう。場所を取り、劣化し、容易に破損する、難儀な存在が。

昔、まだ活版印刷技術が発達していなかった頃、本は宝石や金と同じく、資産として扱われていたそうだ。中身の如何を問わず、本と言う物自体に価値があったのだという。私の本に対する価値観は、これに近い。世の移り変わりとともに技術が発達した結果、本の価値は存在から情報に変わっていったのだろうか。では、宝石の価値は変わっていくのだろうか。工業的に価値のあるルビーやダイヤモンド等のみが「宝石」となっていくのだろうか。

変化の潮流とは、かくも激しいものなのか。

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