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歯はよく磨いておこう

 森の中を散策していると、牛の白骨に出会いました。この日は、実山椒を求めて有刺鉄線の奥の、草原のさらに奥へと歩みを進めたのですが、翠を連想させられるような、山椒の涼しい香りと、緑を割って差す、木漏れ日の間に、博物館の展示ような、牛の白骨が横たわっていました。
 全長は大体成人男性大きめくらいでしょうか、1/1の模型のように、骨はしっかりと輪郭を持ち、何か硬いテーブルクロスのようなものに半分覆われていると思ったら、それは風化した牛の皮でした。通りで布のような見た目をしているようです。
 日常生活で触れることのない、死に思いがけずに出会ってしまい、100%の自然の中で、非現実的な空間が流れる中、特に私の目を凝視して離さなかったのが、牛の歯でした。牛は主な栄養源となる、草の繊維をよくすり潰せるように、人間でいう奥歯のような歯が発達している、という話は、遠い昔に理科の授業で聞いたような聞かなかったような気がしますが、白骨をよく観察すると、確かに草を食んで生きていけそうな、安心感のある歯の形をしています。他の骨の部分は、牛の形を残しながらも、パーツはバラバラとなり、心許無く地面に置かれている状態でしたが、歯だけは、頭蓋骨からその身を離さず、上顎下顎から生え、自分の死をしっかりと噛み締めているような表情を見せていました。
 森を抜け、草原を渡り、有刺鉄線を潜って人間の道に戻ったとき、私の頭に一番残っていたのは、「歯ってあんなにちゃんと残るんだ」ということでした。確かに言われてみれば、歯も骨のようなものなので、肉体が自然に還ったとしても残り続けておかしくないものではありますが、人間の歯は、お手入れをしなければ簡単に抜け落ちてしまうものです。悠久の時を経てなお残る体の一部が、どうして1日3回も磨かないと維持できないものなのでしょうか。
 ただ、今後私がもし歯の管理を怠り、ボロボロの状態で死んでしまい、その白骨が、何千年も後の新人類に発見され、今の時代のホモサピエンスの資料として扱われることになったらどうでしょうか。歯がなかったり、大きな空洞がある状態が我々ホモサピエンスの代表になってしまったら、きっとこの時代を必死に駆け抜けた全ての人類の顔に泥を塗ることになるでしょう。「2000年代の人類は、歯の機能が著しく低下しており、食事は流動食を摂取していた」などと博物館に展示されては、とても顔向けができないでしょう。
 私の死体が長い年月を超えて、どのような物質として世界に在ることになるのかは分かりませんが、とりあえず歯だけでもよく磨いておこうと思いました。私の白骨を見つけた人類が、同じように歯磨きをちゃんとしようと思うきっかけになるといいと思います。

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