合掌

作家、ミラン・クンデラ氏が亡くなったというニュースを知人経由で聞いた。冷戦時代に共産党支配のチェコからフランスに亡命した作家で、ソ連の秘密警察と関係があったとかなかったとかも言われている。享年94歳、偉大な(といわれている)作家にしては長寿を全うしたんだなあというのが正直な感想である。94年の人生は彼にとって長すぎたりはしなかっただろうか。


 先日、久しぶりにおばあちゃんの家を訪ねた。おばあちゃんは数年前より認知症をを患っていて、訪問する度に「結婚祝いは渡したかしら」と聞いてくる。もしも私が良心を持ち合わせていない孫だったら、今ごろはオートロックの家に住めるくらいには小金持ちだっただろう。

 ほんとうに同じ話を何回もする。認知症の人にはじめて触れる私にとっては、ネットとかに転がってる認知症の人エピソードがそんなに盛っていないのかもしれないと思わされるような認知症っぷりだった。その中でも特に繰り返していたのは、20年くらい前に亡くなったおじいちゃん(おばあちゃんの夫)の話である。「ほんとうにいい人だったわ」とおばあちゃんは何度も繰り返す。認知症になってしまったら、何もかも忘れてしまい、色々が無意味になってしまうようなイメージを持っていたのだけれど、実際は大切な強い思い出だけでも生きていけるのだ。多分。

 おばあちゃんは繰り返し、最近は子どもの声が聞こえなくてさみしいと話す。おばあちゃんの家は団地で、昔は敷地内で子どもがたくさん遊んでおり、私もそのうちの1人だった。20年近く前にともだちと遊んでいた秘密基地の入り口は、明らかに新しく植えられた木で塞がれていた。あの景色はもう彼らと私の思い出にしか残っていないらしい。

 炎天下の中、ドライブついでにおじいちゃんのお墓に1人で行ってみた。お墓の所在は実家からさほど遠くはないけれど、おそらく6年ぶりくらいだろうか。この暑さからか、広い敷地には誰1人おらず、各墓石には陽に晒されておんなじ色になったペットボトルが備えてあったりなかったりする。私のおじいちゃんのお墓は恐らく誰も暫くは訪れていない。まっさらな墓石の前でぼんやり拝んでいると、なんとなく気まずくなって、急遽事務所で仏花を購入し、とりあえずお墓に備えてみた。帰りの車でこの異様な日差しだと一瞬で萎れてしまうだろうと気がつき後悔する。墓石には享年61歳と刻まれていた。私の両親はあと5年ほどでこの年齢に達するらしい。

 94年間も生きていれば、死後に持っていける思い出も多いのだろうか、それとも存外50年分くらいは繰り返しの日々で、激動になりがちな文豪の人生にしては退屈な時間も多かったのだろうか。人の寿命は分からないので、私自身はいつ死んでも問題ないように、それがあるだけで生きていけるような思い出を繰り返すことができたらいいと思う。合掌。

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