美術館にまつわる諸々

 久しぶりの美術館で、まずは目玉の日本庭園を眺める。庭園の手前のところに立つ大きな石碑に、「◯年連続日本一の庭園」と刻まれていた。この石碑は毎年掘り直しているのだろうか。日本一の庭園にはあまり立っていてほしくない石碑だったが、集客のためには自身で誇らざるを得ないのだろう。庭園そのものはとても素晴らしかった。
 通路には金箔で飾られた古道具が展示されている。硯や箪笥、化粧台などの日用品が絢爛とした装飾を纏ってガラスケースの中に鎮座している。元々はどこかの上流階級の家庭で使われていたのだろうか。もし自分の家にあったとしたら貴重な代物を壊したり汚したりしないか心配で気が気でないと思う。上流階級のマナーや作法といったものは、文化財になりうるレベルの道具や建築等を壊さないためにあるのかもしれない、などと考えながら、わかったような顔で通路を通り過ぎる。
 次の展示室には北大路魯山人という、美術家であり美食家の人のコレクションが展示されていた。美食家と名乗るだけあり、展示物の大半は食器や床の間に飾るための花瓶や掛け軸が中心である。和食を習い始めたからなのか、展示された器をみるとどんな料理をどうやって盛ろうか、と頭の中で考えてしまう。美術品にまつわる周辺知識が増えると美術館の楽しみ方が増えることを実感した。それにしても、展示品の器の多くは鑑賞用というよりは実際に使われることを前提としたようなつくりになっていたように見えた。美術館に展示されるほどにまで権威を持ってしまった実用品は、実用品として使われずにガラスケースに収められてしまうのはなんだかなんだかである。
 一息つくために、庭園の見える茶室でお茶とお菓子をいただく。隣の客のスマホにポケモンGOのプレイ画面を見てしまった。この場合は周辺にポケストップを設置してある美術館側に非があるような気もする。お茶は苦かった。お菓子は甘かった。
 お茶の後は近代日本画のエリアを歩く。墨汁の濃淡で遠近感や植物の影を表現したその技に思わず歩みを止めて時間を過ごした。西洋画と日本画では、そもそもスタートの画材の時点で写実性に大きく差が開いてしまう。手の届くはずのない本物らしさをどこまでも追求する西洋文化に対して、最初から本物に近づくことを諦め、与えられた枠組みの中で可能性を試す日本文化、という対比が頭の中に浮かぶ。そんな単純な話ではないかもしれないが、西洋と比較した「日本らしさ」とは、こういった「本物」に対する諦めの姿勢にあるのかもしれない。
 最後には現代日本画のエリアが待っていた。現代日本画とは?と始めは思っていたが、展示品を見てみると、かなり写実的で、それでも影の付け方や濃淡の具合が日本画のようで、でもやはり何をもって現代日本画なのかはあまり分からなかった。そして、作品の一つ一つがとにかく大きい。これまでの展示品が家屋で使われたり飾られたりする目的で作られていたのに対し、現代日本画は明らかに始めから美術館のような公の場で展示されることを目的とされているような印象を受ける。なんだかその堂々っぷりに少し腹が立ってきて、あまりじっくり鑑賞してやらなかった。
 最後のショップでは、魯山人の小皿に描かれていた蟹の絵がプリントされたトートバッグを購入した。私は美術館や博物館でめったにお土産を買うことがないのだが、不思議とトートバッグに手が伸びたということは、いい美術館だったのだろう。

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